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借景カフェ~第18回坊ちゃん文学賞応募作②

 気分転換に、美味しいものでも食べに行こう!
 世間的には大型連休の真っただ中、端から端まで仕事で埋まったスケジュール表をスクロールしていた私は、これではいかんと思い立ち、ひとまず今日の午後いっぱいをサボることに決めた。
 就業人口におけるリモート率が九割を超えた昨今、オフィスワーカーは死語となりつつある。インターネット回線と衛星通信を経由すれば、ジャングルの奥地でも絶海の孤島でも、大気圏外からでも仕事はできる。その代わりどこへ逃げようが、仕事から完全に解放されることもなくなった。

 デリバリーとテイクアウトが主流になり、営業中の外食店を探すのも一苦労だ。何でもいいから出会った店に入ろう。行き当たりばったりに角を折れては裏道を進み、現在地が皆目分からなくなったところで、えらく古風なカフェにぶつかった。
 記録映像か創作でしかお目にかかれない『喫茶店』だ。木製の手動ドアが絶滅していなかったことに、どことなし安堵しつつノブを引く。真鍮の鐘ではなく、貝殻と珊瑚のチャイムが軽やかに鳴った。

      ***
 
 ドアの向こうは潮風の匂いがした。
「いらっしゃい」
 店主と思しき初老の男が、流木のカウンターに設えたサイフォンを傾けながら言った。
「とりあえずブレンドで」
「今日は良い波が届いていますよ」
 フラスコで海水と砂が踊る。ゆったり注ぎ、おもむろに差し出されたのは南の海だった。白い砂浜にエメラルドグリーンの波が打ち寄せる。椰子の実のカップの縁を、爪の先ほどのヤドカリが歩いた。
 口をつけたものか逡巡していると、テラスから籠を抱えた女の子がやって来た。スカートの端に木洩れ陽が揺れ、潮風は緑風に変わって吹き過ぎた。
「収穫はどうだい?」
「大豊作。これ今日のお代です」
 籠には摘みたての木苺がどっさり。野の花で編んだ冠を店主の頭にかぶせ、ドアを抜ける女の子の後ろで、小枝と松ぼっくりのチャイムが鳴った。

「お騒がせして済みません」
 花冠を壁にかけ直し、店主は新しいカップを支度し始めた。
 サイフォンのロートに今度はどんぐりを落とし、陽だまりで温める。カウンターとテーブル数席の店内が木立に埋もれ、花冠の輪でヒタキが午後二時を鳴いた。
「あの子の趣味はハイキングで、よく歩きに来ます。自然の残る野山は、近年めっきり減りましたから」
「なるほど、バーチャルリアリティか。仮想技術の進歩は目をみはるものがありますね」
 フラスコの底で双葉が芽吹き、枝葉を茂らせて大樹になった。新たなどんぐりが実りこぼれ、球体のガラスに森が生まれる。地球の歴史を早回しに見るような、厳かで美しい光景だ。
「私は旅行誌のライターです。と言ってもまだ下っ端で。机に貼り付いたまま、先輩方が取材した記事や画像をまとめるだけですが。……業務の大半がリモートに切り替わり、最近は家から出ることも稀になったな」
「あなた自身は旅には出ないのですか?」
 内心訊かれたくない質問だった。旅が好きで出かけたいから選んだ仕事。そう考えるのが自然だし、事実それが入社動機でもあった。
「日頃から色々な景色に接し続けると、頭が前情報で一杯になって、そこで気が済んでしまうというか。……わざわざ金と時間を割いて、実地体験する意味は何だろうと。ライターにあるまじき発想ですね」
 丸木造りのカウンターの上、素焼きのカップを満たすどんぐり色のコーヒーは、湿った苔と雨上がりの匂いがした。
 苦笑いで一口含む。体の中を洗い流されるような清々しさ。梢のざわめきに混じって川のせせらぎも聞こえる。
「……すごいな。味覚、と言っていいか分からないけど。五感がここまで動かせるとは。これじゃ現実の風景からは足が遠のく一方、私達も商売あがったりだ」
「良い森でしょう。借景なんです」
「借景って、日本庭園などに使われる技法ですね。周囲の景観を、庭の景色に取り込んで奥行きを出す。……つまり、この海や森の一部は、天然のものなんですか?」
 とても信じられない。移り変わりが劇的だし、ここは街中の路地裏だ。
 こぢんまりと整った店内。女の子が出てきたテラスの奥に、広大な庭園があるとも思えない。
「文字通りの借りた景色。絵や写真、映像といった実在の風景から、思い出や想像、現実に存在しない架空世界まで。お客様が持ち寄り、頭に描いた景色を貸していただき、再現して味わう店です」
「頭の中の景色を、現実みたいに貸し借りできる……?」
 狐につままれた顔の私に、店主はテラスに通じる扉を示す。アンティーク調の飾り戸は、小窓を切った雪見障子に化けていた。

 恐る恐る開く。
 見渡す限りの水田に稲穂が首を垂れる。腰を屈めた手ぬぐい頭が鎌を差して伸びをする。何十年も前なのに、昨日見たような背中だった。
「ぜひまたいらして下さい。目と耳だけでは知ることのできない景色が、この世界にはあふれています」
 店主の握ってくれた塩むすびは、涙が出そうに懐かしい味がした。

     ***

「お疲れ様でした。大活躍でしたね」
 銀色パウチのレモネードを勧めつつ店主が笑う。
「宇宙食は勘弁して下さい。やっと帰還したんですから」
 夏休みのちびどもに付き合わされ、スペースシューティングに興じていた。私の父親世代が熱狂したゲームで、この辺は昔取った杵柄だ。
 ただし舞台はメインベルトの小惑星帯。本物なら大騒動だが、あくまで天体図鑑の借り物なので。
「ちょっと大人げなかったな。おっちゃんから師匠に昇格してしまった」「みんな喜んでいましたよ。学校の宿題に通信塾、オンラインの課外授業。せっかく休みなのに、満足に遊ぶ暇もないそうで」
「けしからん話だ。子供は遊ぶのが仕事だろうに」
 パソコンを立ち上げ、書きかけの原稿を開く。『四〇〇文字の散歩道』と題したコラムに、麦わら帽を編む職人が映っている。
「そのコラムも定着しましたね。いつも楽しみに読んでいます」
「おやじさんに言われると照れます。私にとっては、あなたが師匠ですから」
 青空の壁を入道雲が泳ぎ、お馴染みのサイフォンでは向日葵が笑う。通いつめるうちにおやじさんと呼ぶようになった店主は、蝉しぐれをミルで挽くかたわら、雲をかき取って特製サンデーをこしらえている。
 
 先輩の取材の同行記事が編集長の目に留まり、小さなコラムスペースをもらった。これが好評を博して連載が始まり、情報収集を兼ねた街歩きや、たまの休みに旅行へ出る機会が増えた。
 私達の世界は、こんなにも温かで美しかったのか。無彩色に思えるほど味気なかった景色が、今は生き生きと輝いて見える。
「春香さんにも読ませてあげれば、さぞかし喜ぶでしょうに」
「若者の邪魔はしたくないな。今が大事な時期ですからね」
 初来店時に木苺を摘んでいた春香さんは、現在高校三年生。受験勉強に忙しく、しばらくご無沙汰だ。志望校は聞いていないが、進学を機に街を離れることもあるかも知れない。
「そう言うあなたも、まだお若いでしょう」
「そう言うセリフは年寄りの証拠です」
 子供の成長は早いもので、すっかり娘らしくなった彼女を見るにつけ、自分の齢も実感してしまう。カフェに通い始めて八年。テラスの飾り戸に反射する顔は、一般目線でもおっちゃんに近い。
 サンデーに夕立を流す店主の顔は、不思議と老いの気配がない。もう十年も経てば、私の方が老けて見えそうだ。
 カップをにぎわす蝉しぐれは、喉を通過する間にヒグラシに交代し、腹の中を夏休みの最終日に染めた。
 吐息がリィン、と鈴虫の初音を鳴いた。

     ***

 秋風が木枯らしの温度に変わる頃、カフェの入口で春香さんとすれ違った。
 長い髪はキンモクセイの香りをまとい、通りを踊る影から紅葉が舞った。ひときわ艶やかな一枚が、くたびれた靴に不釣り合いな模様を刷った。

「惜しかったですね、さっきまで春香さんが来ていたんだが」
「元気そうで何よりです。大学の方は卒論の追い込みかな」
 日曜午後のカフェは盛況だ。開け放したテラスに掃き集めた落ち葉が小山を作り、家族連れが焼き芋に舌鼓を打っている。色付いた峰は雪を頂き、逆さ錦の燃える湖をカップルのボートが滑る。
 指定席と化したカウンターに、コスモスの花冠が置いてある。花言葉は『乙女の真心』だったか。仕事柄思い浮かべてしまう自分が嫌だ。
 年明け号の巻頭記事を任され、今度の取材は長引きそうだ。十数年来の常連仲間に、卒業祝いくらい送りたいが。鬼が笑いそうな想像をめぐらし、薄霜の降りたカップを呷る。雪催いの香りにコートの胸をかき合わせた。
 隣の椅子の背もたれに、古びた文庫が挟まっている。ページの間に紅葉の端が覗いた。
 テーブル席に呼ばれ、おやじさんがカウンターを空けた。何気なさを装いページの隙間を指で探る。
 
 見開きの一本道を駆け抜けた後ろ姿が、天に向かって手を振った。
 背表紙に腰かけた青年が待ちかねた様子で立ち上がる。花布に肩を並べた二つの手が重なる間際、――ぱたんとページを閉じた。

 しょせん借り物は借り物だ。
 低く吐き捨ててカウンターに背を向け、その日を境に、私はカフェ通いをやめた。

     ***

「……やっぱり、家が一番落ち着くな」
 愛用のパソコンを閉じ、下手くそなブレンドをすすりながらつぶやく。「またそんなジジむさいこと言う。作家先生なら、もっとオシャレに表現してよね」
「そう言うのは本の中だけで十分だ」
 生意気盛りの娘の額をこづき、完成した原稿を送信する。
 旅嫌いの旅行誌ライターが、巡り巡って旅行文学の作家になるとは、世の中いまだに驚くことばかりだ。
 おまけに旅先で出会った女性を妻に迎え、娘まで授かった。昔の私が今の私を見たら、どんな顔をすることやら。興味は尽きないが、それは禁じ手というものだろう。
「おつかいついでにハイキングするけど、お土産要る?」
「木苺が良いな、籠に山盛り」
 はいはいと渋い返事で籠を抱える、娘の春香の額をもう一度こづき、取材旅行で汲んできた海の瓶詰めをことづけた。