実写版リトルマーメイドは全ての少女達の為の映画だった
アリエル役に黒人の女優を起用して話題になっていた実写版リトルマーメイドを見た。
これは冗談じゃ無いのだが、実写版アリエルを観た後お風呂に入って髪が濡れている自分が鏡に映った時、アリエル!?と0.5秒くらい思った。
実はその0.5秒をきっかけにこの文章を書いている。
私は元々この映画を批判も肯定をしてなかった。
なぜなら見てもいないのに何も言う立場にないし、今もなお残る黒人の人権問題という日本からではなかなかその現状を知ることが出来ない問題が絡んでいるため、意見する資格がないと思ったからだ。
結論、これは人種問題などの壮大な問題だけではなく、もっと身近な話で、「誰でもプリンセスになれる」というメッセージが込められている映画だと私は捉えた。
前提としてこのアリエルは、私の知っているアリエルとは全くの別物だった。あの赤毛で青色の目をしていて、肌の白いアリエルは画面にいなかった。
もし私がそのアリエルが大好きだったら、改変された!と怒っていたレベルには違うものだ。
だが、実写のアリエルも、
私が知っている”アニメのアリエル”
とは違うアリエルでありながらも、
間違いなく海の仲間を愛し、人の世界に憧れる、チャーミングな”アリエル”そのものだった。
私は幼稚園の頃お遊戯会でシンデレラの役を演じた事がある。立候補して演じた。
髪はシンデレラの特長的な金髪ではなく、黒色だったが、シンデレラの水色のドレスを着せてもらった。そしてそのドレスを着ただけで、自分が本当にシンデレラになったと思い込めた。顔立ちが違うだとか髪の色が違うだとかどうでも良くて、純粋に「私はシンデレラ」だと感じていた。
しかし、小学校4年生くらいからは自分は可愛く無いからプリンセスにはなれないと思うようになった。私はプリンセスのようにぱっちりとした目や高い鼻を持っていないし、彼女達のように華奢でも無い。
シンデレラに立候補した幼稚園生の私は見る影もなく、小学校の学芸会ではお母さん役を自ら望んで演じた。その年齢の時にはすでに、それがブスで背が高く小肥りの自分には相応しい役だと思うようになっていた。
つまり、自分の容姿がどのようなレベル感なのかがわかるようになり、プリンセス達との相違点を感じ始めるティーンエイジャーの少女達にとっては明確なプリンセス像というのはとても遠い存在になってしまうのだ。
そんな中、実写版のアリエルは今まで明確にあった”プリンセス像”をぶっ壊す布石になっていると思う。
つまり、人種も容姿も年齢も何にも囚われず、誰でもプリンセスになれるということを伝えている。
その布石はプリンセスを偶像、キャラクターとして愛し、自分と別の人格としてみている人たちにとってはとても嫌なものになっただろう。本当に知っているあのアリエルとは全く別の容姿であるし、
演技とかもアニメとは違うところが目立つ。
完全な原作改変である。
しかしディズニーはおそらくそういった人たちに向けて今回の映画を作ったわけでは無いと思う。
原作に囚われる気なんてサラサラなく、新しい時代の形にあわせてディズニープリンセスをアップデートさせている。
きっとディズニーは私のようなプリンセスは自分とは遠い存在だと思ってしまった人たちや少女達に向けてこの映画を作ってくれたんじゃないかと感じた。
プリンセスに決まった姿はないことを提示し、誰でもプリンセスになれることを教えてくれたこの実写版アリエルは、とても衝撃的であったが、これによりディズニープリンセス達は本来のあるべき姿である、「すべての少女たち」に夢を与える存在となり、プリンセスという存在をすべての少女達にとって少女達自身に近いものにする事ができたと思う。
私が実写版アリエルを見た後に自身をアリエルだと思った0.5秒は私にとって自身をシンデレラだと思っていた幼稚園生の時以来の感覚であったが、なんだかとてもウキウキして、自己肯定感が上がった時間だった。
追記
黒人のプリンセスを新しく作れば良いじゃん!という声もあるが、それだと意味がない。例えば私の1番好きなプリンセスはシンデレラであり、なれるんだったらシンデレラになりたいが、容姿に合ったものにしかなれないのだったら、黒髪で足がデカい私は絶対にシンデレラになれない。
だれでも、どのプリンセスになれるというメッセージが重要なのである。