学級委員のバッジが欲しい
親父は、戦後間もない2年目。日本国憲法が施行されたばかりの5月に、静岡で生まれた。
所謂、団塊の世代というやつで、ひと学年が何十クラスもあるような、今ではちょっと想像出来ないぐらい子供が多かったらしい。
親父曰く、これがそもそもの始まり、だそうだ。
子供の数が多過ぎて、所謂大人達の対応が「雑」になる。
今みたいに子供が少なければ「個性を大事に」とか、「一人一人と向き合って」と声高に叫ばれるのだろうが、そもそも子供の数が多過ぎて、先生も面倒を見切れない。
だから、統率を取ることが最優先される風潮だったので、
とにかく、みんな同じように、公平に、規則を守るように、という大人達の意図が強かったらしい。
うちの親父は、それが耐えられなかった。
小学校は6年間で六人の先生が担任になっているのだが、
先生全員から「自分の思い通りにならないとふてくされる性格を治しましょう」と通信簿に書かれていたらしい。
(これは、後年おふくろが、親父の通信簿を見つけて指摘した際に発覚したことらしく、本人も六人の先生から同じことを言われていたとは気づいていなかったらしい。)
小学生時代、親父の「我儘」ぶりを体現したエピソードがある。
学級委員に選ばれると、胸にバッジをつけられるという制度があった。
親父はどうしてもそのバッジが欲しくて、学級委員に立候補した。理由は、学級委員になって何かよいことをしたい、とか、クラスをまとめたい、といった崇高なものではなく、「とにかくバッジをつけてみんなに見せびらかしたい」だけ。
そんなやつを、先生が学級委員に推薦するわけもなく、結局他の人が学級委員になった。
当然、親父はふてくされた。
ほっぺを含まらせてブスッとしていたわけではない。
何をしたかと言うと、授業を放棄して帰ってしまったのだ。
「学級委員のバッジをもらえないから、ふてくされて家に帰る」
絵に描いたような我儘な子供だろう。この時小学2年生。
だが、この話にはまだ続きがある。
どうしてもバッジが諦めきれなかった親父は、翌日もう一回先生やクラスに対して「俺、学級委員やりたい!」と掛け合い、結局なんと本当に学級委員になってしまったのだ。
民主主義もへったくれも無い。
こうして無事学級委員のバッジを手にした親父は、ご満悦でそれを胸に付け、学級委員としての職務に励む、、、、なんてことはするはずもなく、むしろ進んで悪戯をしていたそうだ。
弱いものいじめだけはしなかったそうだが、結局2年生から6年生までの5年間、おやじはずっと学級委員のバッジを胸に付けて、日々いたずらに励んでいたらしい。
「バッジを胸に付けて偉そうに歩きたい」、ただそれだけの話。人からどう思われようが、「自分がバッジを付けている」という事実こそが、大事だった。結局、自分が今の自分に満足出来るか否かの問題であって、親父に取っては「バッジが無い自分」に我慢が出来なかった。だから、どんな手を使ってでも「なりたい自分」になるために「バッジ」を手に入れたのだろう。
ある意味、「人からの評価」にまったく頓着しない、我が意の儘に生きる親父を象徴するようなエピソードである。
時代も違うし、大人と子供では比較することもできないが、
今回改めて親父からこの話を聞いて、「なるほどな」と思うところがあった。
ただ、最後に親父は僕にこういった。
「バッジが欲しいからって家に帰ったりとか、絶対に真似するな。」
親父、、会社でバッジが欲しい、という状況は多分この先もないと思う。。。。
(続く)