花火
夕方から母と予約していた美容室に出掛けた。母が私と同じマンションに住むようになって3年、必ず週に1度は一緒に買い物をしたり、食事をしたりするが、美容室に一緒に出掛けるのは初めてだ。川縁の道を10分程歩いてお店につくと、「どちらを先に致しますか?」と店長さんが鏡の前の椅子をクルリと回した。私は母に先を譲ったのだが、じゃんけんで決めようと母が挑んできたから力強く本気で拳を握って、私はあっさり負けた。
観葉植物が自由に繁る店内にはいつものようにピアノのBGMが流れていて、出してくださったアイスティーを頂きながら、京都の特集の雑誌をめくって、私は優雅に自分の順番を待っていた。
そして母がさっぱりした可愛い髪型になって私と入れ替わるときに、いつも奥に置かれているKAWAIのお洒落なピアノの生演奏だったことを知った。「心地よいアレンジのスウィートメモリーズだなあ、どんなCDなのか後で聞いてみようなんて、なんて浅はかな私。弾き語りだったと知らず聞き流して勿体ないことをしました、、。」と嘆いたら、そこから先は奏者の方が気を遣って私の世代を予測して、疲れた心に響いたり青春の傷に染みたりする選曲にしてくださった。お会計のときに、「見上げてごらん夜の星を」が流れてきたので、その曲は最後まで聴きたいねとお財布をしまって、私たちは再び待ち合いの椅子に腰を下ろした。私が子どもの頃にピアノで弾いていた曲。母が好きだと言っていた曲。子どもの私に母が「ちょっと元気に弾きすぎよ」と言っていた曲。
美容室を出て駅前の寿司屋に行った。瓶ビールを1本頼んで半分ずつ飲んだ。握りをつまみに小さなグラスでビールを飲む。母は繰り返し同じ話をするけれど、私は色んなアレンジでそれに応える。「せっかくだから、たくさん注文しなさいね」なんて母は言うけれど、目でいける分量と胃で受け止められる分量に、私たちは大きな誤差が生じているのだよ、とボリュームのある穴子を頂きながら、悔しいねえと笑う。
母と私はあまり似ていない。若くして私を生んだので、親子に思われないことも多い。母は癖のない髪だが、私は祖父や父に似て強めの癖毛だ。性格も、どちらかというと私は破天荒で理屈っぽい父に似ているかもしれない。肝臓と眼は大事にしろよと父が言い遺した通りに体質も父に近いようだ。友だちのお母さんより若いので、子どもの頃は皆に羨ましがられた。お洒落な母のことは自慢だったが、若い親だからとバカにされてはいけないと子どもの頃には友だちの家よりも古くて厳しい躾やルールがあって少し窮屈だった。朝刊を取りに行き父より先に読まないように角を揃えて置いておくこと、日曜日は父の靴を私が磨くこと。下げた食器の重ね方や洗い方。お客様が来る日の特別な掃除、冷蔵庫にあるもので料理が出来るようになること、庭の紅葉や千両でお皿に季節を添えること、自分の下着は自分で手洗いすること。慣れてしまえば簡単なことばかりなのだけれど、子どもの頃は見たいテレビが気になったし、なんで弟は免除されているのかと反抗した。大人になって聞いたことだが、弟は姉ちゃんは要領よくなんでもこなすなあと思っていたらしいので、母が私のポテンシャルを認めていたのだと思うと、今なら自分で子どもの頃の自分を誉めてあげたい。
好物の大きなふっくらとした穴子を頂きながら、「食べるものの好みは同じねえ」と母は言うが、「母さん、私はあなたの作る料理で育ってきたのだから、食べるものの好みや味付けは、多大なる影響を受けてきたの、髪質や性格は違うけれど私の味覚を育てたのも、好き嫌いなく食べられるよう育てたのも、母さんだよ」と笑って、「おかげさまで」と手を合わせた。
コロナの影響で今年は夏祭りが中止になったが、今夜はその代わりに地域ではシークレット花火が上がる。どこで打ち上げられるのか、実は美容室の店長さんがこっそり内緒で教えてくれたので、寿司屋を出て花火が見える特等席になる舗道で母とその瞬間を待った。20時になると勢いよく夜空に飛び出す打ち上げ花火。集まり出した人々の歓声と拍手。地域の花火だから、あっという間に終わってしまうと思っている人々の、まだ終わらないでという祈り。母は座っていられないと興奮して立ち上がって、空を見上げていた。私は鮮やかな花火と光ったり影になったりする母の背中を見ていた。10分くらいだったと思う。本格的だったねえ、キレイだったねえ、近くで上げてるから迫力があったねえと、あちこちから感想が聞こえる。たまたまそこに集まる大勢の人々が同じ光を見上げる。そして、散り散りの方角に帰っていく。その様子も花火のようで楽しくて切ない。
母と私はせせらぎの道を戻る。私が4歳のときに住んでいた家にはお風呂がなくて、近所の銭湯に通ったことを思い出す。そこも同じようなせせらぎのある道で、4才の私は履いていたサンダルを流れに落としてしまった。お腹の大きな母がよっこいしょと屈んで、私のサンダルを拾い上げる光景を私は覚えている。お腹に弟がいるんだから、母に迷惑をかけたらダメだと強く思ったこともうっすらと覚えている。次の日から私は母と手を繋がなくなった。母の手は弟のためにあけておこう、私はお姉ちゃんだからひとりで大丈夫と宣言したらしい。
私を生んで私を育てた人が、最近はとても小さくて、慌てたり泣いたりはしゃいだりさびしくなってしまったりが、子どものようだ。親子仲良しでいいで羨ましいとおっしゃる方がいる。近くに住むことを決めたとき、仲がいいとか悪いとかだけではなく、母は子より先に出来るだけ迷惑をかけずに出来るだけ遠い未来に旅立つことを目標とし、私は母も私も後悔のないように親を送れるようにすることの責任感を抱えて、目標に向けて暮らしている。
コンビニで買ったお茶のペットボトルの蓋を開けながら「歩きながら飲んでもいい?」と母に聞いた。「もう子どもではないし、誰も見ていないから、お行儀悪くてもいいわよ」と母もペットボトルの蓋を開けた。コロコロコロ、コロコロ、エンマコオロギ、、たぶん親子のエンマコオロギが鳴いた。