ブログ企画【繋】第72回「災害」
毎月1日に全国各地のメンバーがひとつのテーマで文章を書くブログ企画【繋】。
去年の8月1日にわたしが当企画にはじめて参加させていただいてからちょうど1年が経つ今回、奇しくもまた同じこの時期に新メンバーが仲間入りすることになりました。
鈴木NG秀典(すずきんぐ)さんとユニットを組んで活動していらした、ミナさんです。
どんな文章を書いてくださるのかとても楽しみです。ミナさんも、読者の方々も、これからどうぞよろしくお願いいたします!
さてそんな今回は、広島にお住いのモリミカさんからこちらのテーマをいただきました。
『西日本豪雨災害、近辺は大変なことになりました。行方不明の方がみつかり、復旧に向けて動き始めました。毎年大災害に見舞われ、増えていくともいわれています。そこで今回のお題は「災害」でお願いします』
テーマ発案者:モリミカさんより
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まずは、この度の西日本豪雨により被災された方々ならびにそのご家族・関係者の方々に心よりお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。一日も早い生活の再建、そしてこころの復興をお祈りいたします。
「平成最後の夏」という言葉が、どこかわたしたちを駆り立てている2018年の夏。
その18年前、おそらく「20世紀最後の夏」といわれていたであろう2000年の夏、わたしは人生ではじめて被災をした。
わたしは毎年夏になると、家族で母のふるさとである伊豆諸島の神津島(こうづしま)に帰省する。
当時6歳だったあの夏は、父は仕事のためひとり東京に残ったが、わたしたちはいつもと同じように母の実家で親戚たちに迎え入れられ、真っ黒に日焼けした島のいとこたちと海水浴や花火を楽しんだ。
ただひとつ、いつもの夏と違ったのは、神津島のとなりの島である三宅島の火山活動が活発化していたことだった。
そのとき、わたしは母の実家の2階の寝室で昼寝をしていた。
川の字に敷かれた布団の両隣には、生後2ヶ月の妹を寝かしつける母と、母の真ん中の姉が寝転んでいた。
しばらくぐずっていた妹が静かになったころ、薄目を開けると彼女の隣で母も眠っていた。
首を振る扇風機の羽の音と山の方で鳴くセミの鳴き声は、次第に遠くなり始めた。
次に目を開けたとき、それまでの穏やかな昼下がりはそこにはなかった。
寝室のガラスの襖はガタガタと大きな音をたて、室内灯のスイッチ紐はふりこのように左右に大きく揺れている。母が叫ぶ。
「はやくそっちに行って!机の下に入りなさい!」
襖を隔てた向かいの部屋に移動するよう指示され、急いで足の低いちゃぶ台の下に潜りこむ。畳の網目が頬にあたる。
「ひろちゃん!◯◯(妹)をおねがい!」
急に起こされて泣き出す妹が、母の姉の手に渡る。
「ママもはやく!」
最後まで寝室に残った母が、大きな揺れのなか、布団の上を四つん這いでこちらへ向かってくる。
しかし、母の手が襖の敷居あたりにさしかかったその瞬間。
寝室の大きな箪笥が倒れた。
倒れてきた箪笥は、あともう僅かというところで、這って逃げようとしていた母の右足の踵の上に覆いかぶさってしまった。
(実際の写真。まさにこの箪笥が倒れてきた)
震度6弱。三宅島の大規模な噴火によって誘発された地震だった。
箪笥が倒れてくるまでの記憶は映像として残っているのに対して、そこから先の記憶は写真集をパラパラとめくるかのような断片的な静止画の記憶がつづく。
母は島の小さな病院へ搬送された。
その間、わたしたち姉妹は母のいちばん上の姉の家へ避難することになる。
母の実家から姉の家までは、原付バイク※で5分ほどの距離にある。
このとき当時3歳だったわたしの弟だけは、いとこと遊んでいたため姉の家にいた。
母のいちばん上の姉が運転する原付バイクに、わたしはハンドルがあるヘッド部分につかまるようにして立ち乗りした。
原付バイクが、地震発生直後の島内を走る。
ぎゅっとつかまりながら恐る恐る顔を上げた先で目にした崩れた町並みと、ヘッド部分の熱が手のひらから伝わる感覚を、わたしは生涯忘れることはないだろう。
母の足は骨折だった。
でも、あともう少し逃げるのが遅かったら。
寝ていた母が目を覚ますのがもう少し遅かったら。
母がとり乱して冷静な判断力を失っていたら。
的確な指示を出せていなかったら。
箪笥がもう少し早く倒れていたら。
最悪の可能性を想像すると身震いする。
島民ではないわたしたち家族は母がケガこそしたものの、自宅が半壊したり、室内がめちゃくちゃに荒れたり、その後の生活の再建への不安を募らせることはなかっただろう。
被害や被災の度合いを比べるのもおかしなことだとは思うが、噴火により全島民に避難勧告が発令された三宅島や、東日本大震災、そして今回の西日本豪雨の被害の大きさを見れば、比較的目立たない災害だったかもしれない。
そもそも2000年の三宅島の噴火と聞いて、神津島の地震まで知る人はどれだけいるだろう。
しかし、島の一部の山肌には、今でもあのときの地震による崖崩れを補修した跡が残っている。
あれから18年が経った今なお、ここまで鮮明に脳裏に焼きついている記憶はほかにない。
災害の記憶というのは、被害の大小にかかわらず、経験した人々の人生の中に強く刻み込まれる。
そしてそれは、やがて日本人全体で共有する共通の記憶となっていく。
災害大国である日本は災害の数もさることながら、わたしたちはこれまでに災害からたくさんのことを得てきたはずだ。
被災者を見舞う気持ちや死者を弔う気持ちももちろん大切だが、災害の発生の記憶だけでなく、それらに付随した知恵や教訓を今後に生かしていく姿勢も共有していくことが求められる。
経験は指針だ。
その点に関して、わたしたちは決して無力ではない。
(神津島・前浜海岸/2013年撮影)
※きつい坂と細道が多い神津島では、少しの移動には自転車よりも小型の原付バイクスクーターに乗る人が多い。
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