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【“奇跡”を起こす camera eye--〈こいまゆ〉さんの仕事】

「素敵な写真を撮ってもらったの」

三⼗年来の友⼈がそう⾔って⾒せてくれた、スマホの画⾯には、ゆったりと柔らかな微笑み を浮かべた、艶やかな横顔が映っていた。

普段謹直な彼⼥があまり⾒せたことのない、⾃然にほころんだ表情が美しかった。

「⼩池まゆみさんという写真家さん。〈こいまゆ〉さんって呼ばれてる。どんな⼈でも、本当に⾃然に、そして素敵に撮ってくれるのよ。
今、全国を巡って、先々で撮影をやってるの。 12 ⽉は神⼾に来てるはず」。

枠があるかしら、と⾔って調べてくれたサイトページの先に、12 ⽉ 5 ⽇の午後、「神⼾布引ハーブ園で写真撮影プラン」の枠が残っていた。

なにかピンと くるものがあって、その場で申し込んだのが 11 ⽉下旬のこと。


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物⼼ついて以来、写真を撮られることが苦⼿なまま、半世紀を来た。

カメラのレンズを向けられると、私は常に密かに狼狽する。
レンズから声ならぬ声が聞こえるように感じるからだ。

〈さあ、最⾼の⾃分を出せ、今すぐに〉。

最⾼の⾃分、それこそずっと捉えることができずに思い悩み続けている「永遠のテーマ」といっても⼤袈裟でないものなのに。どうすればいいのか。

それらしく表情を作り、姿勢をひねり出そうとしても、偽りの上塗りが重なるだけで、ますます焦る。


また、違う時には、レンズは容赦なく、たたみかけてくる。

〈今の⾃分の“役割”にふさわし い表情で、写れ〉。

娘か、マネージャーか、孫か、教師か、友達か、はたまた財団の代表か。
まごつき、ためらっている間に、〈待っていられない〉とばかりにシャッター⾳が響く。

そして、後になって出来上がってきた写真には、〈どう在るべきかわからない〉まま、途⽅にくれて⽴ち尽くしていた⾃分が、虚しく泳いだ視線で映っている。

それは疑いの余地もなく、「その時、その瞬間の⾃分」に違いない。

その意味で、「レンズは正直」という⾔葉を改めて痛感する。

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「〈こいまゆ〉です、初めまして!」

ハーブ園の⼭頂駅で待ち合わせた彼⼥は、⼩柄な体から、明るく、かつ落ち着いていて、安定したエネルギーが出ているようだった。

分野を問わず、良い仕事をする⼈に共通の「オーラ」だ。

極⾃然な流れにのって、いつの間にか撮影が始まっていた。

⼭頂駅から中腹の駅までをゆるゆると下りながらの撮影は、気のおけない友⼈と散歩をしているかのようなリラックスした雰囲気だった。


⼀⽅、要所要所で、彼⼥の写真家としての ポリシー、「勘所」としている部分、経験に裏打ちされた「仕事師」としての横顔を感じることがあった。

きっと、これまで体験したこと全てを、現在の⾃分のあり⽅をつくる「肥やし」にしてこられた⼈なのだろうな、と感じる。

プロフェッショナルとして仕事をしている、 その中核に在る「⾃分」は無理のない⾃然体で佇んでいる。

仕事師としての緊張感と、⾃然な⾃分で居るニュートラルなリラックスの空気を共にまとっている彼⼥の姿を⽬にしているだけで、こちらまで快い気持ちになってくる。



「シャッター ⾳は、無⾔の承認です」

撮影をしながら、〈こいまゆ〉さんが⾔った。

「私は、その⼈の良い表情、⾃然に素敵な空気が出るアングル、ポーズを絶えず⾒つけようとしながら撮影しています。
なんか違う、と思ったら、シャッターは切れないんです。
だから、シャッター⾳は〈いいですよ、素敵です〉 という承認でもあるんです」


晩秋のハーブ園に、カシャッ、カシャッとシャッター⾳が、静かに響く。

「今、ここに在(い)て、いいのだ」。

シャッター⾳を聞きながら、そう思った。

それは、写真を撮られる時にこれまで感じたことがない感覚だった。


You can be here now.
「あなたは 今 ここに 在ていい」。


なんと⼤きい赦(ゆる)しだろうか。
「最⾼のお前を出せ」「〜なお前を演じろ」ではなく、「今ここに存在していていい」、ただそれだけを、静かなシャッター⾳が繰り返し伝えてくる。


⾃然と肩の⼒が抜ける。周りの⽊々や草花が、にわかに⽣彩を増して視界に溢れる。
⼼の奥底から、ぷつぷつと⾳をたてるようにして、わけもなく楽しい気持ちが湧き出てくる。


世に数ある「芸術を⽣むツール(道具)」の中でも、カメラは対象物を捉えて写すという機能⾃体が「認識し、評価する」⾏為と直結するゆえに、被写体に対してアグレッシブ(能動的・攻めの姿勢)であらざるを得ない。

時にそれは芸術作品としての写真を⽣むために不可⽋でもある。

「違う」「そうじゃない」否定を重ねるカメラのレンズと、それに抗う被写体の 「⼀騎打ち」が唯⼀無⼆のアートを⽣むことは、ままある。


しかし、⼩池まゆみ−〈こいまゆ〉のカメラは違う。
彼⼥の camera eye は決して”No”と⾔わない。
さりとて、みさかいなくなんでも”OK”と受け⼊れるのとも、違う。

被写体がプラスにもマイナスにも傾かず、ニュートラルの「ゼロ」地点に定まり、最も⾃然に美しい瞬間を、彼⼥は逃すことなく捉えてシャッターを切っているのだと思う。


その意味で、彼⼥の写真は、
camera eye の性(さが) を逆⼿にとった「奇跡」の表出でもある。

指⽰や否定を重ねて被写体を混乱させ、呪縛していくのではなく、「ありのまま」のニュートラルな瞬間を切り取ることで、被写体を⼤きな安⼼と納得のうちに解放していくものだからだ。




帰途の電⾞内で、まるで良い温泉に⼊った直後のように、全⾝が芯からあたたかく緩んでほかほかとしていることに気づいた。

「写真を撮ってもらってね、温泉に⾏ったみたいに気持ちよかったわー」

と、⼩池まゆみさ んを紹介してくれた友⼈に、今度会ったら⾔ってみよう。
勘のよい彼⼥のことだから、すぐに⾔わんとすることを理解して

「ああ、そうでしょー、すごい気持ちよかったでしょう」

と ⾔ってくれるのでは、と思う。


〈こいまゆ〉さん、この度は本当にありがとうございました。
次に撮っていただける機会を、今から楽しみにしています!

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こいまゆフォトセッションツアー2020にご参加くださったお客様がFacebookに投稿してくださったものです

ご了承いただき転載させていただきました

良さん、ありがとうございます♡


※こいまゆフォトセッションツアー2022は全日程終了しています



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