小説 | 団地の夢 2
桜の花に代わり、瑞々しい葉が一斉に芽吹く。ここにきて一ヶ月半、あっという間に新緑の季節となった。
生まれたての葉は柔らかく、太陽の光に当たってキラキラと輝いている。
ヨーコは新芽の美しさなどを感じる暇もなく、新しい学校への転入、はじめての自転車通学など目まぐるしい日々を過ごしていた。
今までの小中一貫校では地下鉄を利用して通学していたため、毎朝20分の自転車通学は体力的には堪えた。だが、お陰で1キロ痩せたことには感謝している。
「ヨーコちゃん、またね〜!」
「うん、また明日」
ヨーコは団地の入り口で最近友達になったユウコに手を振った。
彼女は団地の向かいにある高層マンションに住んでおり、登校時に出会ったはじめての友達だ。
偶然にも同じクラスで、行き帰りが一緒になる日が続いた。互いの家族の話や、部活動をどうするかなど、他愛のない話をするだけなのだが、遠くから転入してきたヨーコにとっては大変ありがたかった。
ユウコの塾がない日は待ち合わせて一緒に帰る間柄にまでなっていた。
ユウコとはなんとなく話が合うというか、団地内にはない気品みたいなものが感じられた。
私、カワサキヨーコはこんな団地で暮らす人種では無く高層マンションに住む人種なのだという子供っぽい気持ちもあったのは事実だ。
駐輪場に向かう途中、必ず管理人室の前を通るのだが、その度に管理人の男は元気?とか、最近どう?とか声をかけてきた。
「おーい、ヨーコちゃん、ちょっとちょっと」
今日もいつものごとく話しかけてきた。下の名前を呼ぶなんて、なんて失礼なのかしらと思いながら眉間に皺を寄せつつ振り返る。
今日は白いTシャツと深緑色のつなぎという出立ちで、腰のあたりで袖を結んでいる。今日は声かけだけでなく草履を突っかけながらこちらへ来るではないか。
「最近どう?ここの生活には慣れた?」
昔からの知り合いみたいな、近所のお兄ちゃんみたいな親しげな顔をしているが、私はこの男を信用していない。
「はい、だいぶ」
短い返事をしていつものようにその場を立ち去ろうとしたが、男に自転車のカゴを掴まれ、方向転換できなくなってしまった。
突然何をするんだと声をあげようとしたが、男はニコニコしながらこっちこっちと言わんばかりに自転車のカゴを引っ張りながら管理人室の方向へ向かう。
「ちょ…何するんですか…」
怒りとは裏腹に自分から発せられた声は小さく、弱々しかったことに驚いた。
あっという間に管理人室の前まで連れてこられ、帰るに帰れなくなってしまった。
「まあ、上がってよ。美味しいお菓子を頂いたから、一緒にどうかな?と思って」
ツナギの結び目をキュッと締めて、男は高級レストランのドアマンみたいに左手を胸の前に当て、右手の指を揃えて管理人室へ向けた。
何故得体の知れない男と美味しいお菓子をたべなくてはならないのか。意味がわからない。
「いや…結構です…」
信用ならない男の部屋に入れるもんですか。と心の中では強気なのだが、いざ言葉にすると、何日も水を変えてもらえない切り花みたいにしおらしくなってしまう。
管理人室の入り口でもじもじしていると、いつぞやの金髪上裸女が出てきた。今日は上裸ではない。チェックのシャツにマイクロミニのショートパンツを着ている。長い脚が余計に際立つ。
女は強引にヨーコの手を掴み、ちょっと汚いけどごめんねと言いながらヨーコを連れ込み、あれよあれよと小上がりに座らせてしまった。
「いらっしゃい!!」
金髪上裸女はちゃぶ台に置かれた麦茶を新しいコップに注ぎながらヨーコに笑顔を送る。
ちゃぶ台の上には鎌倉土産でもらった事がある胡桃のお菓子や、見たことのない形のクッキーが広げてあった。
「お好きなだけどうぞ」
男は小上がりの角に腰掛け、お菓子の包みを開けている。
私は何が何だかよくわからぬまま、居心地の悪いこの部屋を一刻も早く立ち去りたいと思いながら当たりを見回す。
引越しの日に来たときは気づかなかったが、小上がりの壁には大きな黒い箪笥が鎮座していて、上段は棚、下段は15センチ四方の引き出しがたくさんついた珍しい仕様のものだった。
漆塗りの箪笥は重厚感があり、引き出しの取っ手一つ一つに細かい装飾が施されている。
小さな引き出しにはそれぞれラベルが貼っており、難しい漢字がびっしりと書いてあった。私が読めるのは草とか、甘とか、簡単な漢字だけだ。龍とか蓮花とかも読めたがあとは旧字体なのか、あまり見たことのない漢字だらけだった。
上段の棚には理科の実験室にある乳鉢や乳棒がいくつも並んでおり、お父さんが前の家で使っていた腹筋ローラーみたいな道具もある。
「ワタシ、ジェシカ。あなたはどこから来たの?」
金髪上裸女に話しかけられ、はっと我に返った。他人の家の中をジロジロ見てしまったことにバツの悪さを感じながら、帰るに帰れないこの状況に向き合う覚悟を決めた。
「…えと…、東京の、方から。」
弱々しく金髪上裸女の問いに応えた。
「東京!ワタシ行ったことあるよ。お寺で煙を浴びたよ!あと、大きなランタンがあったね。」
多分浅草のことを言っているのだろう。
「東京からだったんだね。ここいらはかなり田舎で驚いたでしょう?隣の県なのに大違いだよね。」
麦茶を飲みながら、管理人の男が話に入る。
男と話したくなかったため、私も麦茶を飲んでみた。麦茶と言うよりはハーブティーのようなスッキリした味で、香ばしさの中にレモングラスの様な爽やかさを湛えていた。ひんやりしていて美味しい。
「ヨーコって言うんだよね?なんて呼んだらいい?」
何故私の名前を知っているのか。個人情報漏洩ではないか。管理人の男を睨む。
「…なんでも、お好きにどうぞ…」
相変わらず声は弱々しい。心の中の私なら今すぐにでも「帰ります!」と叫んでこの部屋を飛び出せそうなのに。
「じゃ、ヨーコね!じゃあワタシのことはジェシーって呼んでよ!ヨロシク!」
ジェシーとやらは握手しようとばかりに手を差し伸べてきた。
宜しくってなんだよ。友達になった訳ではあるまいに。ただ、この状況で"ヨロシク"を無視できるほど私の意思は強くない。やむなく金髪上裸女と握手した。
金髪上裸女は嬉しそうにニコニコしている。よく見るとなかなかの美人だ。シュッとした鼻筋と大きな口。金色のフープピアスも彼女によく似合っている。ハリウッド映画に出てくる新人女優という感じ。思わず見惚れてしまった。
「よし!二人の顔合わせも済んだし、本題に入ろうか」
管理人の男がこちらを見ている。
「二人にはこれをお願いしたいんだが…引き受けてくれるかな?時給3000円!悪い話じゃないと思うんだけど…」
管理人の男は一枚のチラシを差し出した。
-----〇〇地区新緑祭
5/14,5/15
鍼灸処かねひら出張診療所開設!
身体の不調がある方はぜひお立ち寄りください-----
「は?」
新緑祭てなんだよ。
心の中で言ったつもりが言葉に出ていた。
「いきなりごめんね〜、明日明後日の土日で近所の地区合同でお祭があってね。そこのスタッフとして二人に手伝って欲しいんだ」
何故私がこの人の手伝いをしなくてはならないのか。全くもって意味不明だと思いながらチラシを眺める。
ジェシーは先にこの話を聞いていたのか、一緒にやろうよ!と私の肩をたたく。
「いや、、でも…えっと…私にも用事が…」
得体の知れない男の手伝いなどしたくありませんとはっきり言えば良いのだが、強い言葉が出ないのが悔しい。
「あれ?お母さんにはだいぶ前に承諾貰ったんだけど、聞いてない?」
「は?」
また心の声が出てしまった。
なんてことだ。母と結託して私をこき使う算段なのか。なんとも憎たらしい。無意識に眉間に皺が寄る。
「受付と順番待ちのお客さんにお茶を出すだけだからさ!それで時給3000円は良いと思うよ。どうかな。やってくれるかい?」
管理人の男は狐みたいに目を細めて笑う。
ジェシーも一緒にやろうの一点張りだ。
ぐぬぬ…と思いつつなんと断ればいいか思案していたが、私がはっきり断らないのをいいことに、当日の集合時間や、お賃金の説明、かねひら特製デトックス茶の淹れ方など話がどんどん進んでいく。
気づいた時には当日の制服と新緑祭会場の地図を渡されてしまった。
「あーよかったよかった!ヨーコちゃん引き受けてくれないかもと思ってたから助かるよ〜」
男は私の肩をぽんぽんと叩いた。セクハラだ。
「なんで私が…」
断れない自分に嫌気がする。
「そんなの決まってるよ。ヨーコちゃんが可愛いから、受付嬢として居てくれると僕もお客さんも嬉しいからだよ」
付け足したようにジェシカもねと白々しく男は言った。
なんでこんなことになってしまったのか。
せめてもの救いは快活なジェシカと一緒だということだ。カタコトながら一所懸命に話しかけてくれる姿に心を許し始めている自分がいた。彼女を見ていると気持ちが和む。
男と二人っきりじゃなかっただけマシか…。それにしてもお母さんには抗議しないと。
自分の内弁慶さを恨めしく思いながら、家路につく。
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