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神の領域 「ロマネ・コンティ 1996年」



はじめに


昨日は大変お世話になっている方の記念すべきバースデーディナー。一年前からスケジュールに記載し、ついにこの日を迎えました。

素晴らしいという言葉では表現しきれないほどのワインの数々。長年の同志である5人のメンバーで一夜で味わうとても贅沢な時間。

記念日というのはもう二度と戻ってはこないからこそ儚くも生涯の記憶として深く刻まれるもの。

誰と、どこで、どのように過ごすのか。人生の大きな節目となるこの日に同席させていただいたことに深く感謝致します。

Premium Wine List
「ロマネ・コンティ1996年」「シャトー・ルパン1989年」「DRCモンラッシェ1989年」「ドン・ペリニヨンP2 ロゼ1996年」「サロン1996年」「トリンバック クロ・サンテューヌ1996年」「サンセール エドモン・ ヴァタン2003年」

果たして総額はいくらになるのか。。

まさに世界最高峰の芸術品であり希少の極み。幻の逸品と言える存在が7つも目の前に並ぶ姿は圧巻の領域。

僭越ながら「ロマネ・コンティ1996年」の抜栓もさせていただきました。




D.R.C.ロマネ・コンティ 〜誕生秘話〜


ルイ 15 世の寵妃で当時権勢を欲しいままにしていたポンパドール夫人とルイ 15世のいとこであるコンティ公爵(ルイ・フランソワ 1 世)の二人が畑の所有権をめぐって争いました。この頃、当時としても最高の畑として名声を博していた「サン・ヴィヴァン修道院」所有の区画ロマネ(現ロマネ・コンティ)が売りに出されます。(ちなみに、リシュブールやラ・ターシュは
「シトー修道院」の所有)。

ワインを愛寵していたポンパドール夫人は、自分の力を誇示する為にもこの最高といわれていたブドウ畑を手に入れようとしました。しかし、コンティ公爵が黙ってはいませんでした。この話を聞きつけたコンティ公爵はすぐさま大金を用意し、このブドウ畑を購入してしまいます。そして、購入した瞬間に、畑の名前をロマネ・コンティとしたのです。


所有者の変遷


現在ロマネ・コンティの畑を所有するのはドメーヌ・ド・ラ・ロマネ=コンティ(DRC)社ですが、その会社を所有するのは、ド・ヴィレーヌ家とルロワ家。オベール・ド・ヴィレーヌとアンリ・フレデリック・ロック(ラルー・ビーズ・ルロワの甥)の二人がドメーヌを共同経営しています。そのドメーヌ・ド・ラ・ロマネ=コンティ社の発祥は 1867年、ロマネ・コンティの畑が、サントネのネゴシアン J・M・デュヴォ・ブロシェに売られた時にさかのぼります。

現在の当主ヴィレーヌ家はこの一族の子孫に当たりますが、1942年、デュヴォ・ブロシェの子孫にあたるオベール・ド・ヴィレーヌの父は、ドメーヌの半分をオークセイ・デュレスのネゴシアンであったアンリ・ルロワに売却しました。

そして 1979 年アンリ・ルロワの死後二人の娘であるラルー・ビーズ・ルロワと姉のポリーヌがドメーヌの四分の一ずつを受け継ぐことになります。その後 1992 年にラルー・ビーズ・ルロワは共同経営者を退き、ポリーヌの次男(ラルー・ビーズ・ルロワの甥)である、アンリ・フレデリック・ロックが共同経営者となり、現在にいたります。彼は 1988年に自らのドメーヌ、プリューレ・ロックを立ち上げ、自然派ワインの先駆者の 1人として成功を収めている人物でもあります。


DRC のブドウ


フランスのワイン用ブドウは害虫フィロキセラによって壊滅的被害を受けた時期があり、その際、多くのブドウは畑から引き抜かれ、アメリカから取り寄せた台樹に接木をすることで害虫被害をさけてきました。

しかし、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティでは 1945 年までブドウをそのままに栽培し続け、1760 年にこの畑を所有し素晴らしいワインを造り上げたコンティ伯爵時代のブドウを守る努力を重ねてきました。とうとうロマネ・コンティの畑のブドウを抜かなくてはならなくなった際にも、ラ・ターシュの畑に植わるブドウに、ロマネ・コンティのブドウからとった枝を接ぎ、その枝を再度ロマネ・コンティの畑に植えるという方法で大切なブドウを守ってきました。

現在、ロマネ・コンティの畑に植わるブドウもコンティ伯爵時代の直系の子孫のみが植えられているのです。

ロマネ・コンティの畑


畑の広さはわずか 1.8ha。東南東に向いた日当りの良い場所にあり、グラン・クリュの畑に囲まれています。岩石と泥灰土の基盤に鉄分の多い石灰岩の土壌で、海抜約 240 メートルの地にブドウの木が植えられています。

ブドウの木の平均樹齢は非常に高く約 44年で、有機栽培で育てられます。複雑な地層をもつ土壌の上部は石灰質で痩せているため、ブドウの根は地中深くまで伸び、地中のミネラルや多様な要素を吸収することができます。

肥料は粉砕したワインの木の根、ブドウの皮および発酵残渣からつくられた堆肥のみを用います。トラクターを用いることで土が詰まるのを防ぐため、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュの半分、リシュプールの半分と並んでモンラッシェのブドウ畑は馬が耕します。

DRC の栽培・醸造


DRCの畑では90年からビオディナミ農法が採用され、大切に受け継がれた唯一無二の畑とブドウの特徴を最大限に引き出す努力がなされています。

収穫時は約100名体制で行われ、ブドウへのストレスを考慮して籠を地面に置く事は禁止されています。また、徹底した収量制限をしていることでも有名です。天候に恵まれた優良年でも 30hl、そして天候に恵まれなかった年には 10hl まで落とすこともあります。例えば、1 本のロマネ・コンティをつくるためには 3本のブドウの木が必要と考えられています。

収穫されたブドウは破砕、除梗はせずにそのまま醗酵槽に入れ醗酵させます。但し、ブドウの熟度の不足した年は全房発酵は行わず、最大 3~4割除梗される事があります。醗酵温度は 32~33 度を保ち、醗酵および醸しはできるだけ緩やかに長めに行い、トロンセ産の新樽を 100%使用して熟成を行います。生産量は年間 6000本前後とかなり少量です。


ロマネ・コンティ豆知識


1947 年から1951 年までの 5年間、ロマネ・コンティは造られていません。それは、戦時中にブドウ樹の天敵であるフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)が蔓延したのですが、農薬の入手が困難な時代だったためロマネ・コンティの畑もこの害虫の犠牲となりました。

そして、1945 年のヴィンテージを最後に、アンリ・ルロワはすべてのブドウ樹を伐採する決断をしました。そのため、ブドウの樹が成熟するまでの 5年間、この畑からワインを造ることが不可能となったのです。なお、通常フィロキセラの被害にあった畑では、アメリカなどから取り寄せた台樹を使用して接ぎ木をしていますが、DRCではロマネ・コンティの畑については
ラ・ターシュの畑に植わっていたピノ・ノワールを台樹としており、あくまでも DRCが維持してきた純血の畑とブドウ樹へのこだわりを通しています。

また、意外と知られていないのが DRC はBatard-Montrachet、Vosne Romanee 1er Cru Petits Monts、Vosne Romanee 1er Cru Suchots も所有していますが、これらのブドウは自家用もしくはネゴシアンに売られて
いるということで。



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