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発明家と宇宙飛行士は自由であった

私は幼少期に四谷大塚で2度敗北を経験した。

両親は受験競争というものには無縁の人間達であった。そのため、姉も私も幼い時に塾というものには通ったことがなかった。

勿論完全に一般家庭かと問われるとそう言い切れない部分がある。我が家は祖父母交えてトランプゲーム、ボードゲーム大会が毎週のように開催されていた。ボードゲームはオセロ、チェス、将棋、囲碁、その他世界的に有名なボードゲームがさまざまに行われていた。そして、幼い姉、私が負けて悔し涙を流すと「泣くな!興が醒める!悔しければ勝て!」と母から叱責されるのであった。

そんな私は一度だけ小学校1年生の時に四谷大塚という塾に連れて行かれたことがある。いつもの日曜日に夜のゲーム大会を楽しみにしていた私に母が「力試しにテストを受けに行くよ」と言い、連れ出したのだ。「気楽にやっておいで」という母に送り出され、緊張した面持ちの同年代の子どもたちのいる教室へと入った。

テスト自体は名前を書いたり、規則性を見つけて絵を描いたりするものであった。私は早々と最終問題まで辿り着いた。ふと隣の女の子を見ると、髪の毛をいじるのみで答案用紙は1枚目のままであった。当時の私はこの子は一体何をしているのだろうと疑問に思ったのを覚えている。他の子供達を見ても落ち着きなく周りを気にする子、鉛筆を転がす子、挙句立ち上がろうとして試験管に制止されている子とさながら動物園の様相であった。

私は制限時間が残り半分であることを確認し、最終問題に向かうことにした。最終問題はオセロの思考問題で、盤面に対してどのような手順を踏めば自らが勝てるかという問題であった。簡単に解けそうだと思った。だが一度顔を上げてしまった私は再度集中できるほどには成熟していなかった。先ほどまで全く気にも留めていなかった教室の子どもたちに意識が取られた。爪を噛む音、机を叩く音、足をバタつかせる音、全てが気になってしまった。徐々に私は焦り始めた。しかし、どのような手順を踏んでもオセロの最終盤面は相手勝ちになってしまうのだった。

結局私は四谷大塚相手にオセロで完敗してしまった。

試験管に答案用紙を回収されても私は問題用紙を見つめ続けた。迎えに来た母との会話も思い出せない。そして車の中で答えがわかってしまった。そのことが私をとても苦しめ、帰りの車で母に悟られないように泣いた。解けなかったことも悔しかったが、分かればそれほどの難易度ではなかったことが私には辛かったのだ。泣いていることに母は気がついていたが、珍しく何も言わずに運転を続けていた。

そんな私に再度四谷大塚から挑戦状が届いた。先日のテストは入塾テストで、私の入塾が許可されたという内容であった。そして最上位クラスへの編入の通知でもあった。

私は再度四谷大塚という戦場へ出陣することになった。

最上位クラスは入塾テスト会場とは全く異なる雰囲気であった。皆行儀良く椅子に座り教師の話を聞いていた。誰一人として歩き回ろうなどという子供はいなかった。そしてクラスの後方では小綺麗な格好をした母親達が立ち並び授業の様子を見守っていた。

私の隣には浅黒い、野生的な雰囲気を醸し出す少年が座っていた。私はグリーンのTシャツ、彼はレッドのTシャツを着ていた。教室の多くの子どもは小綺麗なシャツを着用していたので我々は1人でも浮いた格好であったが、2人並ぶとより一層であった。

授業の前半は自らの将来の夢について話す時間であった。次々と順番に前で自らの夢を語るクラスメイトを見て私はまず驚いた。メガネの子どもが多いのだ。私には彼らがロボットに見えた。

私の知っている友人達の夢は、男の子であれば野球選手、サッカー選手、女の子であればパン屋、花屋が相場であった。だがロボットたちは困っている人を助けたいと述べ、医者、弁護士になりたいと語った。中にはピアニストというものが1人だけいた。

そして隣の彼の番になった。隣の彼は皆の方を見て誰よりも大きな声で述べた。

「僕の夢は新しい物を作る発明家です!」

生き生きとした表情で述べる彼が私には眩しく見えた。

私は、「皆を宇宙から見守りたいから宇宙飛行士です!」と当時の夢を語った。

席に着くと、隣の彼が私の顔をじっと見て尋ねてきた。

「宇宙飛行士になりたいの、かっこいいね」

「発明家すごいね、工作とかするの?」

「工作よくするよ!」

そこで先生に静かに他の人の発表を聞こうねと嗜められた。我々は小さな声で謝り残りの人の発表を聞いていた。しかし結局医師と弁護士ばかりであった。すでに私は隣の彼に心を奪われていた。

後半の授業は真っ白な画用紙に絵を描くというものであった。正確には、画用紙に様々な大きさ、色のついた三角形、四角形、丸といった構造物を貼り、絵を作るという物であった。

私は思いつくままに三角錐や円錐を作り、それを大量に貼り付けた。ただ、貼り付けただけで不恰好な塊が出来上がり、そこに大きな丸を2つ貼って車輪とした。

時間が来て出来上がった物を発表することになった。最初に呼ばれた私は皆の前で沢山の立体が乗った画用紙を立てると貼り付けた三角錐や円錐がいくつか剥がれて落ちた。私が慌ててしゃがみそれらを拾おうとすると私の動きによって更に多くの立体図形が剥がれて落ちた。

大人達からはため息が漏れ、教室全体の空気が冷めていくのを感じた。

私は耳が熱くなるのを感じながら、幾つもの立体図形が床に落ちた状態で、「未来の車です」と短く発表し、先生からの「どんなところが見どころ?」というフォローの言葉にも「わかんない、でこぼこなところ」と答えた。その後二、三言交わしたと思うが、覚えていない。ただただ床に落ちた立体図形を拾い、画用紙にのせ、足早に席に戻った。

ロボット達の発表が続いた。ロボット達は皆、決まったようにサンタクロースの絵を発表した。三角形と三角形で六芒星を作り、大量の六芒星を雪に見立てる。四角形でプレゼントを表現する。三角でトナカイを作り、赤い丸は当然鼻であった。そして、皆ソリに乗ったサンタクロースを作り上げていた。

その時の私は最早驚きもせず、むしろこれが大人達に褒められる正解なのかと感心していた。

隣の彼は最後であった。

彼は宇宙を飛ぶロケットの絵を書き上げていた。

大人達も同じ絵の連続に飽きていたのだろう。誰かが「へえ」と呟くのを背中で感じた。

そして先生は見どころを尋ねた。彼は私を指差した。

「この宇宙飛行士は未来の彼です」と。

画用紙には白い丸とグレーの四角で作られた宇宙飛行士のヘルメットを被った緑のTシャツの人間がいた。彼は私の夢が宇宙飛行士であることを覚えていてくれたのであった。絵の中の私は自由に宇宙空間を飛び回っていた。

だが当時の私は自分の失敗で頭が一杯であった。彼が無限の想像力で私に語りかけてくれていたというのに。

彼は帰り際私に手を振ってくれていた。私も力無く手を振った。そして俯きながら母と帰路についた。

私は2度と四谷大塚には行かなかった。どころか小学4年生まで塾に行かせようとする親に抵抗し続けた。怖かったのである。決まっている正解を黙々とこなすことができる秀才達に負けることも、決まっていない正解をいとも容易く導き出す天才に負けることも、自分が凡人であると何度も打ちのめされることも。

1度だけの出会いであったが彼のことは今でも覚えているのだ。そして、あの時逃げなければもしかすると生涯の友になれたかもしれないと想像するのだ。

彼はすでに発明家であった。巧みな想像力で画用紙から新しい正解を生み出していたのだ。彼が今どこで何をしているのだろうかと私はいつまでも想像するのだ。

一方の私はサンタクロースを描くようになってしまった。

いつからかメガネをかけ、塾に通い、医師を志した。そして医師を志した理由を聞かれれば困っている人を助けるためと述べるロボットになった。

あの時の私は画用紙から図形を飛び出させるほどの元気があったというのに。宇宙空間を飛び回り画用紙から飛び出てきそうなほど自由であったというのに。

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