英語ができないスーパーヒーロー

私は英語ができないスーパーヒーローであった。

小学生だった私と母は、夏休みにニューヨークへ渡った。叔父が急逝し、2人の従兄弟の面倒を一時的に見る必要があったからだ。すでに中学生の姉と父は留守番だったが、私は折角の機会として連れて行かれた。

初めての海外に心躍らせていた私だが、同時に大きな不安を抱えていた。早期英語教育とは無縁の私が知っていた英語は「ハロー」「イエス」「ジャパニーズ」のみ。従兄弟は日本人で、母も一緒だから安心だと考えていた。しかし、母は私に突然「現地校のサマースクールに4週間通うことになった」と告げた。そうして、私にとっての地獄のような4週間が幕を開けた。

初めて足を踏み入れたアメリカの学校は、門番が銃を持っており、私は何もしていないのに背筋を伸ばしていたことを覚えている。教室に入る前、母が髪の毛がバッハのおじさんに話しかけていた。バッハ先生が私に何か尋ねたが、私には理解できなかった。ただ、何か好意的なことを述べていると感じ、笑顔で「イエス」と答えた。

教室では、東洋人の私に対してざわついていた。日本であれば手を振って応じただろうが、私はうつむいて席に座るしかなかった。

サマースクールでは、1週間ごとに大枠のテーマが設定されており、以下のようなスケジュールだった。

1週目:芸術

2週目:スポーツ

3週目:勉強

4週目:お祭り

そして金曜日には、その週に最も活躍した人がクラスで表彰される。

初日は魚の形をしたお菓子と紙とクレヨンが配られ、クラスの皆が一斉にクレヨンで何かを書き始めた。絵を描けばいいと思い、消防車の絵を描いたが、大外れだった。周りを落ち着いて見渡すと、魚のお菓子を画用紙に貼り、周りに絵を足すというお題だった。私はすべてのお菓子を食べてしまい、困った末に隣の男の子にジェスチャーで魚を分けてくれるよう頼んだが、断られた。すると前の席にいた女の子が男の子に何か言い、私に笑顔で魚のお菓子を3つくれた。

最初の数日間、クラスメイトは私に話しかけてくれていたが、徐々に私が英語ができないことに気づき始めたようだ。前の席の女の子以外からは話しかけられることは少なくなった。

昼食時、私と隣の男の子は席で食事を取っていた。そこにその女の子が振り返り私たちの間で食事を始めた。最初は理解できなかったが、男の子と仲良く話しているのを見て徐々に気づいた。彼らは双子の姉弟だった。姉は「ローマの休日」のオードリーヘップバーンのような美形で、クラスの中心人物だった。一方、弟はいわゆるいじめられっ子の雰囲気を持っていた。低身長でぽっちゃりし、金髪をちぢれさせていた。

弟は私のことを奇異な目で見ていたが、姉は頻繁に私に話しかけてくれた。私は「イエス」と笑顔で答えるだけだったが、せめて名前を覚えようと彼らの名札を凝視した。姉はオウル、弟はアベンといった。その日、私は母に自己紹介の英語を教わった。

翌日、2人の名前を呼び、自分の名前、英語が話せないこと、友達になってほしいことを簡単な英語で伝えた。私の目を見ていたオウルは微笑み、「イエス」と言って私の手を握った。アベンも「イエス」と言っていた気がするが、私はそれどころではなかった。

奇妙な3人組ができ上がった。クラスの人気者、いじめられっ子、東洋人はいつも一緒だった。昼食を共にし、クラスの芸術の課題が何であるかを彼らからの身振り手振りから何とか察し、事なきを得た。動物を粘土で作るときに「シーサー」を作った時は、バッハ先生が目を丸くしていた。

そして1週目の金曜日、クラスの表彰を受けたのはオウルだった。アベンと私は目一杯の拍手をしていた。

いつしか私は言葉が話せなくとも、アメリカにいる不安を感じなくなっていた。

2週目は私の独壇場であった。幼い頃から器用だった私は、サッカー、バスケットボール、走り幅跳び、水泳、キックベースどれをやらせてもクラスの1、2位を争うほどの実力を発揮した。週の後半には皆が私をチームメイトにしたがっていた。だが、私たちはいつも3人組で、余裕があるときにはアベンにゴールを決められるようお膳立てし、3人で大喜びしていた。

少し期待していたが、私ではなく別の男の子が金曜日に表彰された。

3週目はまた地獄であった。国語すなわちEnglishの授業は元より、テストなど解けるはずがなかった。人生で0点をこれほど連続で取ることがあるとは思わなかった。ただ、算数だけはセンター試験のように答えをマークするものであり、図と問題文の数字から問題を予測して解くことができた。算数だけ抜群に解けている私の答案を見て、アベンは首を傾げていた。

木曜日にオウルは私に英語で書いた紙を渡してきた。かろうじて「comic book」と書いてあるのが読み取れた。帰宅し母に見せると、「明日自分の好きな漫画をみんなの前でスピーチするらしいよ」と言われた。オウルは私が準備できないだろうと察し、わざわざ紙に書いてくれたのだ。

私はたまたまハマっていたブラックジャックを紹介した。準備していた英語は緊張で半分も話せなかったが、白けた空気を読み、突如大声で「アイアムアドクター」と英語で述べた。そんな白けた空気を切って、オウルが声をあげた。

「Will you become a doctor?」

その助け舟を信じ、私は「イエス」と誇らしげな顔をした。バッハ先生は苦笑しながら席につけとジェスチャーし、私を席に返した。

そうして最悪な3週目が過ぎた。

4週目はサマースクールの締めであり、お祭りであった。毎日面白い格好をして登校し、遊んだ。全ての服を前後逆に着る日では、パーカーを前後逆に着て、外が見えるようにフードに小さな穴をあけてフードを顔面に被って登校した。コスプレの日は顔面を白塗りにし、髪の毛を逆立ててドラキュラで登校し、バッハ先生にドン引きされた。髪の毛に色をつけて登校する日は、ありとあらゆる色のスプレーで髪の毛を彩り、文字通りクレイジーな姿であった。いじめられっ子アベンはいつも恥ずかしそうに登校しており、コスプレもトナカイの鼻をつける程度であったが、私を見て最終日真っ赤な髪の毛で登校していた。そして私は金曜日についに表彰された。「クレイジージャパニーズ」と言われ、もらったお手製の金メダルを持って、オウルとアベンとハイタッチをした。

その日、私はサマースクール最終日であった。そして翌日には帰国することが決まっていた。迎えにきた私の母親が、オウルとアベンの母親と言葉を交わしていた。

今日で彼らと会えるのが最後であることに私は気がついていたが、何も伝えることができなかった。するとオウルが私に一枚の封筒を渡し、何やら声をかけてくれた。私は変わらず笑顔で「イエス」と答えたが、何やら慌てた母親がオウルに話すと、少し寂しそうな顔で手を握ってきた。アベンも同様に手を握り、私たちは別れたのであった。

帰りの車の中で、私は母に何と言っていたのか尋ねた。「再来週にオウルの誕生日会があるって誘われたから、日本に帰るって断った」と。それを聞いて、私の中に寂しさが募り始めた。

封筒を開けると、誕生日会の招待状と便箋が入っていた。私は母に便箋の言葉を読んでもらうことにした。

「私にとって初めて出会う日本人が浩一郎、あなたでよかった。あなたはスポーツ万能で、きっと日本では勉強もできるのでしょう。そして何より最終週のあなたは最高だった。引っ込み思案のアベンも、あなたを見て前に出る勇気をもらったみたいだし、あなたみたいにお医者さんになろうかなって言っているわ。私の誕生日会に来てほしいから、このメールに返事ちょうだい。あなたは英語ができなくても、私たちにとってのスーパーヒーローよ。」

そこで私は気がついたのだ、ありがとうの一言も言わずに彼らとさようならをしてしまったことを。異国の地で一人ぼっちだった私の味方でいてくれた君たちこそスーパーヒーローであったと。

私は日本に帰り、初めてメールアドレスを作成し、すぐさま彼らにメールを送った。自分の言葉を母に翻訳してもらい、送ったのだ。それから私は彼らとメールを交換する日々を送った。きちんとお礼も伝えられたし、アベンが日本の漫画にハマったという話もした。そしてアベンからは「君を超える」と告げられた。

だが、そんなメールも数週間経ったある日を境に突然途絶えてしまった。その日は遠い遠いニューヨークの地のニュースでやけにテレビが賑わっていた。何度か彼らにメールを送信したが、以降一度も帰ってくることはなかった。そして暗黙のうちに私と母はそのメールボックスは開かないようになった。

それでも私はいまだに時々夢見てしまうのだ。私が医師として国際的に有名になったある日、彼らが目の前に現れることを。誇らしげに「I’m a doctor.」と伝えられる日を。英語ができるスーパーヒーローになれる日を。

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