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Photo by
sinoayakouri
マナーモードとベルの音 [ショートショート]
携帯電話が机の上で震える音に気づいたのは、湯呑にお茶を注いでいるときだった。画面を見なくてもわかる。マナーモードにしているから、着信の主を知らせるのは振動音だけだ。
自転車に乗るとき、いつもマナーモードにする癖がついたのは、通勤中のあの日からだ。信号待ちでメールを確認していたとき、後ろから軽くぶつけられた。「ごめん」と声をかけた高校生の男の子の顔は真っ赤だった。それ以来、ハンドルに手をかけたら画面を見るのをやめ、音を消すようにしている。
玄関から鍵を手に取り、自転車置き場へ向かった。冬の朝は空気が冷たく、頬を刺すような感覚が気持ちを引き締める。いつも通りハンドルを握り、ペダルを踏み出すと、タイヤが小さな砂利を巻き上げる音が足元から響く。マナーモードの携帯はポケットに収まったままだ。
通勤路には小さな坂がある。登るたびに少しだけ息が荒くなる。坂の頂上から見える風景は単調で、目に入るのは白いフェンスと青い空くらいだった。けれどその日は、遠くから聞こえるベルの音が違和感を呼んだ。
振り返ると、赤いジャケットの女の子が自転車で坂を登ってくるところだった。ベルを鳴らしながら一生懸命にペダルをこぐ姿は、どこか懐かしい。自分もこんな風に学校へ通った日々があった気がする。だが、思い出を追いかけるより先に、女の子は追い抜いていった。
「すみません」と軽く会釈され、自分も軽く手を上げて応えた。坂を下る勢いで、彼女のベルの音は遠ざかる。ふとポケットに手をやり、携帯を取り出して画面を確認する。着信は一本もなかった。ポケットに戻し、またペダルを踏み出す。
ベルの音が消えた後、再び静寂が戻る。マナーモードにした携帯と同じように、世界も音を閉じ込めたようだった。