『神戸とYMCA100年』を読む #01戦前・戦後のYMCAと、私たちがまだまだ取り組んでいないこと
「青年にあたたかい握手を」
神戸YMCAの初代理事長である村松が、ニューヨークのYMCAで受けた感銘が、神戸YMCAを産んだ。
1986年に執筆された「神戸とYMCA百年」は、戦前、戦後のYMCAの変遷を知る上で優れた書物であり、今だからこそ読み解きたい。
#01は #00から続き「緒言」の解説を続ける。
時は明治。
近代化が始まる過程で、日本のYMCAは始まった。
1886年、ニューヨークから帰国した村松は神戸にYMCAを興す(#00)。
いわば、日本のYMCAは、維新期における近代化思想や精神導入の窓口となり、知識や技術を迎え入れた政治家たちに対し、同じく武士階級の若者たちによって、その精神的基盤としてのキリスト教を伝えたのである。これは西欧社会におけるYMCAの発生とはまったく違った形での出発であったということができるだろう。
1844年にイギリスで興ったYMCA運動は、産業革命によって増大した貧富の差、格差に対する反応だった。その後日本にも伝わってきたYMCAは、「近代化」のための、一つの精神基盤だった。
日本は政治、軍事力の拡大とともに、後発資本主義国としてアジアに向けての侵略を試み、それは内にあっては、その国家主義を支えるための儒教を中心とするナショナリズムの外来宗教への弾圧となって現れた。キリスト教を中心とする思想、文化の担い手としてのYMCAも、この時期には運動の衰退を余儀なくされたといえるであろう。
この辺りはとてもはっきりと書かれている。当時の青年には、日本における近代化は「資本主義国」として発展することと、「アジアに向けての侵略」という武力による拡張だった。
日本の資本主義的野心と中国民衆の抵抗とはやがて歴史的にも大きな爪痕を残す第二次世界大戦へと発展してゆくのであるが、この期間はYMCAにとっても試練の時であった。
そこに日本の野心と、その先で日本の野心に反発した中国民衆があった。その衝突が、大戦へと発展していく。
戦争は、ポツダム宣言を受け入れた日本の無条件降伏によって終結した。第二次世界大戦を、帝国主義とファシズムに対する自由と人類の平和の維持のための戦いであると宣言する考え方からすれば、当然の帰結であったともいえる。
帝国主義とは、
一つの国家・民族が自国の利益や領土や勢力の拡大を目指すため、政治的・経済的または軍事などの面で他国や他民族に対し侵略・支配・抑圧し強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策である。ー Wikipediaより
ファシズムとは、
民主主義の立場では、ファシズムを反自由主義・反民主主義で「全体主義」の一部ととらえます。共産主義者は、反社会主義の労働者を支配するための「帝国主義」だと批判しています。一方で、ファシズムを「共産主義」の一種とする人々もいるのです。 ーホンシェルジュより
こうしてYMCAの歴史を紐解いてみると、
明治という近代化の波とともに現れ、
帝国主義とファシズムによって近代化を図ろうとした日本の失敗とともにあり、
その絶対的反省をもとに戦後の歩みがスタートしたことがわかる。
イギリスやアメリカとは全く違う、日本独自のYMCAの歴史がここにある。
私たちにとっては長いように感じる130年を超える歴史も、
歴史的な営みの中では、まだ「一区切り」の域を出ず、
まだまだ初歩段階なのだと感じる。
新しい憲法が制定されるまでのプロセスが、統括機構をそのまま継いだ旧指導者たちの困惑の過程であるとともに、
まさに天地がひっくり返った戦後の日本で、
当時の青年たちが何を感じて生きていたのか。
「日本国憲法」が制定されるまでの様子がよくわかる一文だ。
1949年東京俗恩館(小金井市にあった青年団講習所の名称)において第1回レクリエーション指導者養成中央講習会が行われ、米国から数名の指導者が来日し、青少年団体の目的とあり方、運営や活動の方法についての講義やデモンストレーションが行われた。レクリエーションやグループディスカッションの方法論が展開されただけでなく、民主的人格の成長を図ることを意図した、グループワークの理論に基づく指導なども紹介されている。
現在のYMCAの原型は、この時に形作られた。
戦争というものは私たちにとって、本当に大きなものだった。
しかし、私たちが真摯に受け止めなければならないのは、次の一文だ。
日本のYMCAは、このような歴史的な変革期を自覚的に受け止めるために、内に向けての「戦争責任の告白」と、外に向けては民主化過程の推進を行う用意をせなばならなかった。
内に向けての「戦争責任の告白」とはいったいー。
終戦の処理が支配層、特に軍部の責任追及に向けられ、国民は傍観者として外に置かれているときに、「われわれもまた戦争を遂行し、協力した」という痛みの告白は、すなわち新しい時代にどう生きるべきかを問うこととなった。
ここにあるように、戦後すぐの国民の意識として、「国民は傍観者として外に置かれている」と書かれている。
この支配層(政府)と、国民の距離感が気になる。
そして、何よりも重要で、現在のYMCAではまったく感じられないのが、
「われわれもまた戦争を遂行し、協力した」
という戦争責任の告白だ。
たとえば1949年、淡路で青年たちがキャンプのプログラムを持った際、それぞれが戦争中の思い出を語り、大きな歴史的過ちを自らも担ったことの悔悟(後悔し改めようとすること)と、そのゆえに歩まねばならぬ贖罪(犯した罪を償うこと)への道を誓って、キャンプファイヤーが涙の集会となったとき、それを眺めていた地元の青年たちにも深い感銘を与えたというエピソードなどが生まれたのである。
私たちの再出発は、戦後にスタートした。
生まれて間もない近代国家は、若くして歴史的過ちを犯した。
多くの若者が戦陣に散っていったと同時に、多くの若者が戦後を生きていた。
悔悟と贖罪への道。
これが、私たちが「(そのゆえに)歩まねばならぬ」道なのだ。
ちょうどこの頃、朝鮮で内戦が始まる。
1950年、朝鮮戦争勃発。朝鮮は分断することになる。
米軍の朝鮮派兵に伴い、日本の占領政策の急速な転換が行われた。
経済的には米軍への基地の提供などを通して急速に活気づき、高度経済成長への足がかかりを作ることになる。
この変化が、悔悟と贖罪の道を覆い隠していく。
朝鮮戦争を足がかりにして、日本の経済は世界が驚くほどの成長を遂げる。
一気にムードが変わったのだ。
「戦争責任」の告白より、民主主義的人格の形成という新しい社会的要請に応えることに忙しくなったと考えることができよう。この傾向は、やがて、再び、1960年代においてYMCAのあり方をめぐって激しく問われることになる。
いつの時代も「時代の要請に応える」というYMCAの性質によって、
「戦争責任の告白」が影に隠れてしまった。
1960年代の議論は、のちに触れることになると思うが、
その議論を経た現在でも、悔悟と贖罪の道は、隠れたままのような気がする。
戦後40年の歴史は、このように思想や状況の激しい変化の中で目まぐるしくゆらぎ、YMCAのプログラムも、微視的(ミクロ的)視野においては必死に状況に対応しようとしたことが伺えるのである。
この緒言は1986年に、今井鎮雄氏によって書かれた。