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日本のマラソン、あるいはトレイルランニングの事始め・NHKラジオ「カルチャーラジオ歴史再発見」からメモ書き

江戸時代に品川から鎌倉まで10時間で往復を走った武士の記録があるそうです

ランニングをしながら、NHKラジオのアプリ「らじるらじる」で聴き逃し配信をポッドキャスト感覚で聴いています。その中で「カルチャーラジオ歴史再発見」という番組で「日本スポーツ文化史」というシリーズがありました。東洋大学の谷釜尋徳教授による講義の第8回が「走る近世武士」というタイトルで、日本における長距離走の起源となる記録や出来事が紹介されていました。碓氷峠を越える山岳走を安中藩が行った「安政遠足(とおあし)」は有名ですが、それ以外にもユニークな事例が紹介されていました。

この講義で紹介されていた出来事を書き留めましたので紹介します。初回放送日は2024年8月20日でした。

山鹿素行の『武家事紀』

江戸時代前期の兵学者である山鹿素行は、延宝元年(1673年)に著した『武家事紀』の中で、武士の鍛錬として「走り比べ」を推奨しました。これは屋敷内を走り、脚力を鍛える訓練であり、当時の武士が馬や駕籠に過度に依存している現状に対する批判的な提言であったと考えられます。

安政遠足(1855年)

嘉永8年(1855年)、現在の群馬県安中市に所在した安中藩主、板倉勝明公が主催されたイベントにおいて、安中城(標高150m)から碓氷峠熊野権現(標高1,200m)までの山岳を含む約29kmを往復するコースが設定されました。50歳以下の藩士98名が複数グループに分かれ、順次スタートし、1日で約60kmを走破したと記録されています。熊野権現の茶屋に遺されていた『安中御城内御諸士御遠足着帳』には、このイベントの詳細が記されています。

寛政遠足(1791年)

寛政3年(1791年)、江戸城から鎌倉鶴岡八幡宮までの約105kmを往復する徒競走が幕府主催で行われました。このイベントは、山田桂翁の『法暦現来集』と平戸藩主松浦清山の『甲子夜話』に記録されています。

江戸在住の25歳から30歳の武士9名が参加し、平均時速は6~7kmと、当時の旅人歩行速度(3~4km)を大きく上回りました。幕府はコース整備や庶民への案内など、参加者にとって快適な環境を整えていました。

参加者は竹笠、羽織、股引き、わらじ、そして刀を身につけて走り、13時間26分でゴールした市川喜平が優勝しました。彼は将軍徳川家斉に謁見する栄誉に浴しました。

友成柳次郎による単独遠足(1825年)

文政8年(1825年)、江戸在住の武士・友成柳次郎(岩佐注・漢字表記が誤っている可能性があります)は、品川宿から鎌倉・鶴岡八幡宮までの往復85kmを単独で歩行しました。その記録は『遠足願書控』として現存しており、同文書によれば、友成は幕府への届け出を済ませた上で、事前に沿道住民に告知を行い、道中の補給においても住民の協力を得ていたことが伺えます。

友成は午前3時に品川宿を出発し、午前8時には鎌倉に到着。食事の後、午前10時半に復路へ出発し、午後3時には品川宿へ帰着しました。この行程から算出される平均時速は8.5kmであり、現代のウルトラマラソンランナーに匹敵する速度であったと考えられます。

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