【うちには魔女がいる】#10 父の話
うちには魔女がいる。
魔女はハローキティとほぼ同い年。
7月生まれの蟹座。A型。右利き。猫派か犬派かでいったら、断然犬派。
私のお母さんの、5つ歳が離れた妹。
これは魔女がつくる、やさしい料理の備忘録である。
父の話をしよう。
父は自由人だ。
3ヶ月まったく音沙汰がないのなんてザラで、「生きてんのか?」と不安になってきた頃になってようやく、なんの前触れもなくふらりと家に帰ってくる。
まるで昨日もうちで一緒に夕飯を食べていたような自然さでごはんを食べて、缶ビールを一本だけ飲んで話して笑って、そしてまた野良猫のようにふらりとどこかへ消えてゆく。
まるで春になったら放浪の旅から帰ってくるスナフキンのようだ。
私は、世界一有名なムムリクの旅人の娘なのだ。
私は父のことが、子どもの頃から大好きだった。
聡明で博識で、何事にも囚われない自由な人。それでいて、とても、やさしい人。
父はかつて塾講師として働いていた。彼は生粋の子ども好きの、いつだってすべての子どもたちを幸せにしたいと素面で言えてしまうような男で、まあ言ってしまえばとんでもないロマンチストなのだ。
そんな性格ゆえに塾だけでは飽き足らず、いまではフリースクールや特別支援学校などの読み聞かせボランティア、子ども向けのボディパーカッションパフォーマンスなどいろいろと手広くやっているようだ。
お父さんはなにをしてらっしゃるの? と聞かれて言葉に詰まったことは、一度や二度ではない。
母が生きていた頃から、物心ついたときにはもう私は魔女のおいしくてあたたかい家庭料理に囲まれていたが、一度だけ、父がそうめんを茹でてくれたことがある。
その日は父とふたり、お盆時期で父の実家に帰っていて、祖母が出かけてしまったので昼飯にそうめんでも茹でるか、という話になった。
普段は魔女のつくった料理を並んで食べるか、もしくはたまに外食に連れていってもらうかくらいの記憶しかなかったので、父が台所に立っている光景がとても不思議で新鮮で、なんだかやけにわくわくしたのを覚えている。
おとうさん、おりょうりできるんだね。そう言うと彼は確か、苦く笑ったのだ。
「料理ってほどのもんじゃあ、ないけどね」
案外手際のいい父の茹でたそうめんを、居間には持って行かずにこっそりキッチンのミニテーブルに広げて食べた。
魔女がつくった料理みたいに手が込んでるわけでも手間がかかってるわけでもない、ただ茹でただけのそうめんと、水で薄めて氷をひとつ浮かべた麺つゆ。
それはいま思うと味気ない昼食だが、それでも子ども心に父がつくってくれたというその事実が嬉しくて、馬鹿みたいにはしゃぎながら麺をすすった。白い麺の束のなかに時々混ざる、ピンクや黄緑の色のついたそうめんがきれいだった。
昔から忙しい人だったが、母が脳溢血で亡くなってからは朝早く出勤し、私が眠ってから帰って来るようになった。
父方の祖母が認知症を患ったのは私が中学1年生のときで、それを機に彼は介護のために地元に帰り、私は散々悩んだ末、生まれ育ったいまの家に残った。
結局私と父が一緒に暮らしたのはたった13年、時間に換算するときっともっと短い。
親子というには、どこかきれいで、薄い思い出。
父のことを心から愛しているし、心から愛してもらった。
やさしいあの人のことだ、たくさんの子どもたちの為に心を砕き、私と同じように愛してきたのだろう。いままでもこれからも。
そのことを、私は胸を張って誇りだと言える。
でもそれはきっと、私に帰る場所があったからだ。
たとえ父が仕事で帰ってこなくても、顔を合わせる時間が年々少なくなっても、離れて暮らしていても。
それでも私には帰るべきあたたかい家があって、守ってくれる大人たちがいて、やさしい料理が待っていて。
だからこそ、今日この時まで、なんの迷いもなく父を好きでいられたのだ。
あの人はやさしい人だったけど、私だけの父親ではなかったから。
最近は父に気まぐれに誘われた舞台やコンサートに連れ立っていって、時々ふたりで酒を飲む。無邪気に笑って自分の話をする父はまるで子どもみたいだ。
今日もあの家で誰かが私を待っていてくれるから、私はこの人を友人のような気安さで「父さん」と呼ぶことができる。
時折思い出す彼の茹でたシンプルなそうめんは、やはり白に混じるピンクや黄緑の差し色が美しく、そしておいしそうだった。