心霊スポットとパワースポットは分けられるのか。
神社巡りをしているうちに心霊スポットにも興味を抱くようになった。
といっても、肝試しのように心霊スポットに出かける訳ではなく、明るい昼間に行くのである。
心霊スポットにわざわざ行くという人たちがあるようだが、どうしてなのかよくわからない。
しかも、暗くなるのを待って出かけるのも、蛮勇なのか見えないものへの感性のネジが外れているのか、わからない。
ただ、怖いもの見たさというのは誰にせよ多少は持ち合わせているだろうから、怖いと言いながら指の隙間から対象を見つめてしまう心理はわからなくはない。
心霊スポットになぜ興味を持ち始めたのだろうか。
あまりそのきっかけを覚えていないのであるが、心霊スポット巡りの動画をたまたま見かけたときだったろうか。
奈良の田舎に廃神社があって心霊スポットとされているらしく、その映像を見たときに、なぜか出かけていかなければならないと直感したのだった。
神社巡りでも奥宮や元宮に行ってみたい、神社の跡地を訪れてみたい。
そんなふうな廃墟マニアや廃道フリークののような傾向は多々ある。
もともとはどこにあったのか。
昔の姿を見てみたいというのは一定の人たちの中に常に火種となって燻っているようである。
奈良の廃神社とはすっかり白高大神という名称が広まって、ますます奈良最恐の心霊スポットなどと呼ばれている。
だが、古びた神社が心霊スポットになるという流れそのものに不思議な縁を感じたのと合わせて、自分の行くべき場所なのだという揺るぎない確信があった。
あの神社に行きたい、あの奥宮までたどり着きたいといったその土地そのものへ吸い寄せられる感覚ととても似ていた。
心霊スポットには大きく分けて二種類あるとイメージしている。
一つはビルや学校、ホテルやトンネルなど、人工物が何らかの理由によって心霊スポットとされているケース。
もう一つはその土地そのものが噂によって心霊スポットになったもの、である。
廃神社や城跡といった場合、この二つが混在しているとも言えるのだが、根源的なルーツはやはりその土地が本来持っているエネルギーに由来すると考えたい。
神社や仏閣、城などは、古人が卓越した心眼によってその土地を選び出しているのであり、他でもなくここでしかあり得ない場所となっている。
そして、神社や城跡といった心霊スポットの場合、その一帯でブラックホールのように周辺の浄化すべきエネルギーが流れ込んでいることが多い。
いわゆる神社仏閣でパワースポットと呼ばれている聖地と主に寺社が由来の心霊スポットというものは、あくまで陰陽の対を成しているだけなのであって、相容れないものではなく、そこには共通する深い土地の役目がある。
ただ、人間ならではの欲でもって見ればある場所はパワースポットととなり、ある場所は心霊スポットとなるだけにすぎない。
そこで、神社巡りでも重要なキーワードである「封印」という概念が思い浮かぶ。
簡潔に話せば、封印とはその時代に優勢であった者たちによって影に隠された総体なのだといえることができる。
隠された存在をリアルに明るい場所へと引き戻すことが正義であるとシンプルに思えることもある。
しかしながら、封印されていなければしっかり往時にかき消されて消滅していたであろうことを思うと、やり方はえげつなかったかもしれないにせよ、この時代まで、もしくは未来のある一点まで、封印することによってその時の空気をそのものを瞬間的に保存して只今まで遺して来た、ともいえる。
果たして心霊スポットはそのどちらなのであろうか。
心霊スポットの中には撤去によって、土地の造成によって、すっかりどこだったのかわからなくなっている箇所もある。
そのとき、その土地そのものを見つめるのか、表土上のものとして心霊スポットを思い浮かべるのかで心霊スポットそのものの立ち現れ方が変わってくるだろう。
心霊スポットの地域に住む人たちにとってその場所は果たして心霊スポットなのか。
むしろ、外観が心霊スポットでなくとも私たちは心霊スポットとしてその場所を認識することができるのだろうか。
土地そのもののエネルギーとは大変重層的で、かつ重い。
2017年11月 執筆