ラインをむすぶということ。
古代において隠され消された神がいる――
その神にスポットを当てて天岩戸のようにおもてに引き出そうとするうごきがみられます。
隠れるべくして隠れている
このくにの古層において〈ゆらぎ〉であり〈あそび〉であった古代の神々をもういちどおおやけのもとにライトアップすることで原始のエネルギーの胎動をふたたびとりもどしたいというおもいもよくわかります。
しかし、隠されたとされる神を追ってしらみつぶしにその関連の神社を追いかけることは、かえって隠そうと意図したものの術中にはまるのではないか、企図するものがお膳立てした迷路に自ら飛びこんでいくようなものなのではないか、そんな疑問が涌いています。
隠そうとしたから隠されているのであって、それを引っぱりだすには色を反転させて浮かびあがらせるような方向性の方が遠回りなようで近道な気がするのです。
—— 隠された神のまわりを黒く塗ってゆくことで中心がほのかに白く浮きあがってくる。
紀伝体と編年体
神社巡りということをすなおに考えるとき、歴史書の編み方と重ね合わせることがあります。
たとえば、司馬遷の「史記」は人物や出来事に重点を置く紀伝体で記される一方で、歴史の教科書を始め多くの書物では時系列でたどっていく編年体が主流です。
また、風土記といった地誌では限定された地理的範囲を焦点にしてその土地の文化や歴史をまとめていくというアプローチもあります。
これらのことは、なににスポットを当てて神社を回るのかということと似ている気がします。
私であれば、まず、出雲、であるとか伊勢、であるといった土地のエネルギーとして古層を持ちつつ自分と縁の深いと思われる地方をいくつかピックアップします。
そしてそれらをどういう順番で、どういうルートで回るのかイメージしていくのです。
これを私は「ラインをむすぶ」と呼んでいます。
「点」は結ばれてこそ意味を持つ
ラインをむすぶということは、すなわちエネルギーをスタート地点から各点を経由してゴール地点に増幅させながら移動させることです。
それぞれの地点でドミノがきれいに倒れていくように、もしくは神経衰弱でトランプがたて続けにめくられていくような、ゆるやかな流れとよろこびが含まれるものです。
もちろん、ラインというのは、あくまで個人的な意図によって最初は引かれるものでしょう。
日本地図を眺めてみる。伊勢、出雲、九州、四国、京都、富士山など、聖地として重要な地点を目で追っていく。
すると、やがて、それぞれの地点をむすぶラインが地図上に見えてくるのです。
ここで不思議なことは、ただ地点をラインで結ぶだけではだめだということです。
たとえば、東京と大阪に行きたいとします。
その場合、東京に先に行くのか、大阪に先に行くのかでもその旅の気づきは大きく変わります。
また、たとえば長野を回って右回りから東京へ入り大阪まで結ぶのか、反対に大阪から富士山を経由して東京に入り、長野から左回りで大阪に戻るのかでも、その旅自体のエネルギーの流れかたや自分のなかの意識の変化がまったくちがうようです。
右回りと左回りというのも、その旅の目的がエネルギーを増幅させるのか、それとも鎮魂が目的なのかによって変わるようです。
とはいえ、これらは意図的にやっているというよりは、なんとなくぼけーと地図を見ていたらそんなかんじがした、というほうが強いのですが。
なぜ巡礼は「巡る」必要があるのか
「ただシンプルに複数のパワースポットに行く」というのももちろんすばらしいのですが、「神社巡り」であるとか「巡礼」という言葉に『巡る』という単語が入っていることを鑑みると、深い古層のエネルギーにふれようとするとき、『巡り』『回る』という要素のたいせつさを思わずにはいられません。
これは、私が四国といういわばあらゆる結界が編みこまれていて、その表層に四国八十八カ所の遍路巡礼というものが機能してあって、生まれたときから肌にしみついていることも影響しているのかもしれません。
さらにいえば、伊勢や出雲をはじめ、指で数えられるほどの少数の聖地を何度もなんども飽きずにまわっているというのも、自分が背負っている『巡る』ということの〈おもさ〉とはなんだろう、とつくづく身につまされながら、ただ歩いているのです。
2012/03/19 執筆