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(43)オンラインで難しいのは「受け止めてるよ」と伝えること

 東京では新規感染者数が減少傾向ですが、まだまだ非常に多い人数で推移しています。そんな中でも、そこそこ小学校へワークショップに行ってます。ある時、私のワークショップには何度も参加されていますが、子どもの現場にいっしょに行くのが初めてという方もご一緒しました。
 初めての人がいるというのは「そんな風に思うんだ」とか「それは、こんな意図が裏にはあるんです」とか、新しい発見や自分の考えや行動(言動)が整理されることに藻なり、私にとっても非常に勉強になります。
 そんな中で気づいたことがありました。

【43】-1 子どもに何を言ったらいいでしょうか?

 私は、コロナ前だと、学校にほぼ毎日行っている期間があるなど、子どもたちと対面する機会が非常に多いです。でも、それは学校の先生にでもならないと、普通にはなかなかないことだと思います。

 その方もあまり経験がなかったので、「子どもたちに何を言ったら良いでしょうか?」と私に質問しました。

 子どもたちに言うこと(伝えること)はたくさんありますが、
1:アドバイス(助言)
2:表現されたことについての感想
という2つのことが、経験のない方にとっては難しいというか、不安に思うことなのかなぁと思います。

 私たちは(大人は)子どもたちに良くなってほしい(達成感を得てほしい)と思うので、技術的なこと、例えば私たちがやっている演劇であると「こんな風に動くと良いよ」「こっち側に立った方が良いよ」「手をこんな風にすると良いんじゃない?」というようなことを言いたくなります。

 実際技術的なことを伝えると「あ、そっか」「そうだね!」「やってみる!」とイキイキと表現することも少なくありません。

 ※余談ですが、教育関係者というか、学校現場で演劇をやろうとしている方たちは「イキイキ」というのを多用するように思うのですが、気のせいでしょうか…。使われすぎてて、私はあまり使わないようにしています…

 演劇的なことになると、自分でも思うのですが「余計なことを言ってしまうなぁ」と思うことが多いです。

 例えば絵を描いている子どもに置き換えた場合、「この色を使った方が綺麗だよ」とか「ここを強調して描いたら良いんじゃない?」なんてことは少ない気がするのです(あるかもしれませんが…)。
 どうすれば良くなるかなんて、図工(美術)の先生はおそらく知っていて、でも子どもたちの表現を尊重するため、言いたくなっても言わないという努力(?)をしているのだと思います。

 でも、こと演劇になると、なかなか我慢が出来ない人が多いのではないかと思います。

 また、表現したことに対して、特に褒める言葉というのを私たちは(日本人は?日本語は??)あまり持っていないようにも思っていて、なんて言ったら良いか悩みます。

 ※もう20年位前だと思いますが、イギリスのファシリテーターの方が「Lovely」「Great」「Fantastic」「Marvelous」「Beautiful」など多くの言葉を使っていて、こんな風に色々使いたいなぁと思ったものです

 もちろん私も「素晴らしいです!」「すごい!」「素敵です!」とか多くの言葉を使おうと、そしてそれが自分の言葉として(違和感なく)使えるよう努力はしています。大人であれ子どもであれ、褒められる言葉をかけられるのは嬉しいものです。

 でも実は「褒める」ことよりも「受け止めた」ことを伝えた方が、特に子どもたちには必要なんだと思います

【43】-2 「おかあさんといっしょ」に学ぶ

 私が必ずといっていいほどワークショップ中に行うもので「身体で物の形を表現する」というものがあります。もともとはPETA(Philippines Educational Theater Association)の手法で、一人で表現することから、だんだん人数を増やしてグループで表現することに繋がっていくものです。

 例えば一人で「コップ」を表現することをやったり、二人で椅子、五人で花を表現する、みたいなことをやるのですが、その時には「素敵だね」とか「上手いね」とか、そういったことは言わないようにしています。
 「このコップには取っ手が付いてるね」とか「この椅子は背もたれが高いんだ」とか「ひじ掛けがついてる〜」とかそんなことしか言いません。極端なことを言えば「椅子だ!」としか言わない時すらあります。こどもの表現していることを認識し、それを伝えるというのが非常に大切なのです。

 これが私なりの「子どもたちに何を言ったら良いか」の一つの答えです。子どもたちは「褒められたい」と思います。しかしある子どもを褒めると、他の子どもは「褒められていない」という状況をつくってしまいます。そんなつもりはなくても、そこに比較という概念が入ってしまいます。
 また「褒められる」ことを日常的にされると、「褒められること」に価値観を見いだし、「褒められること」のみを目指しましてしまいます。単純に褒められることを目指せば良いのですが、ゆがんだ価値観になったり、プレッシャーに感じる子どももいるのです。

 いろんなところで言われているので、ご存知の方も多いと思いますが、NHKの「おかあさんといっしょ」のお兄さんとお姉さんは、子どもたちから送られてきた絵を紹介する時に「上手いね」とは絶対に言いません
 「お姉さんが踊ってるね」とか「お兄さんが赤い帽子を被ってるね」とか、そこに描かれている事実のみを発しています。

 実はこれが非常に大切だと私も思います。褒めるのではなく「受け止める」ということを子どもたちに伝えるのが重要だし、「受け止めてもらえた」と子どもたちが感じることが、イキイキと(笑)表現することに繋がっていくのだと思います

 「褒める」ことをくり返すと、「もっと褒められたい」と思うようになり、ウケを狙ったり、大人が気に入ると勝手に思っている妙な演技をしたりします。それは非常に悲しいことだし、勿体ないことで、子どもがイキイキと表現するところから離れていってしまいます。

 そう言った目で「おかあさんといっしょ」を見ると、別な面白さがあるかもしれません(私はNHKの人ではありません)。

【43】-3 オンラインでの演劇の発表は中途半端になりやすい

 「受け止めたこと」をその場にいる子どもたちに伝えるのは、比較的難しいことではないのですが、それがオンラインになったらどのようにすれば良いのでしょうか。

 子どもに限定しなくても良いので、大人も含め一般的な話にしようと思いますが、オンラインで「受け止めたよ」と伝えるのは、実は非常に難しいことだと私は考えます。なぜなら「受け止めたよ」と伝えるのは、その言葉そのものではなく、笑い声だったり、視線だったり、表情だったり、しぐさだったり、一つではないからです

 例えばZOOMで劇をつくって、それを発表したとします。演劇と映画・ビデオ・YouTubeなどの動画との一番の違いは、言うまでもなく「生」であること、演じている側も見ている側も同じ時間を(対面であれば場所も)共有しているということです。
 その時にZOOMなどでは、気を使って音をミュートにしたり、発表者以外の画面をオフにしたりします。むしろ「見やすい」という意味で、そのことを私も推奨していました。
 それはそれで間違いではないと思うのですが、やはり「演劇」の「生」であることを考えると、他の人の笑い声や「えーっ!」という驚き、すすり泣く声などが聞こえないのは、寂しいだけではなく「むなしさ」すら感じます。

 見ている人の反応がないということは、演じている人にとって良いのか悪いのか分からないということで、反応を見て(感じて)熱がこもるとか、より激しく演じてしまうという相乗効果も失われるということになります。
 チャットやコメント欄に反応を書くことはあっても、それを瞬時に読み取り、瞬時に感覚的にくみ取り、それを演技に反映させることは不可能といってよいでしょう。

 一方、映画にしろビデオやYouTubeのような動画にしろ、これらの「創られた作品」は「計算されたもの」です。自分が「納得した作品」を発表していて、賛否はあっても、それは自分から作品が手放されているものなので、受け入れるしかないですし、受け入れる気持ちもあるでしょうし、受け入れられなくても「あの時ああすれば良かった」というような後悔は、「生」の演劇のそれとは違うものです。
 映画や動画はの「受け止めたよ」という反応は、基本的に後からつくもので、演劇のように同時性ではないのです。でも、反応されれば嬉しいですし、反応(受け止めたよという意思)は誰でもほしいものです。

 もう一つ大きな違いは、演劇は、受け止める人に手渡す時に、自分のことを客観的に見ることは不可能ですが(それは例えプロでも、練習を何度重ねていても、自分のことを100%客観的に外側から見ることは不可能という意味です)、映像は、自分で確認してから受け手に送ることが出来ます。
 これは非常に大きな違いです。

 どちらが良いというわけではなく、それぞれのメディアとしての違いがあり、それは発する人と受け手が、それぞれ納得して成立するメディアなのだと思います。

 ところがZOOMなど、オンラインでの演劇作品の発表は、この中間に当たります。中間というのが厄介で、生の反応がないのに、映像を手渡さなくてはならないということです。先程の音や映像を消すことがあるため、反応を見て帰ることも出来ないし、時間的にはほとんど同時に見ている人に伝わるために、100%納得したものを届けることも出来ません。非常に中途半端な状態であるのです。

 また、ZOOMなど多くのオンライン会議システムは、自分のことが見えます。自分のことを半分客観的に見ながら他の人にも伝えるというのも実に中途半端で、自分が見えていないからこそ出来ることがあったり、見えているからこそ出来ないことがあったりして、人間はなかなか面倒くさい生き物です。

 この中途半端さは非常に大きなジレンマであり、ギャップです。このギャップを乗り越えないと、オンラインでの演劇の発表というのは、カラオケで気持ちよく唄ってる人がいるが誰も聞いていない、というものに似た状況から脱することは出来ないでしょう。

【43】-4 「受け止めたこと」を「伝える」ことの大切さ

 くり返しますが「受け止めたよ」ということを私たちは、毎回わざわざ言葉にして伝えているわけではありません。笑ったり泣いたり、つまらない顔をしたり、「えー」と言ったり、「ちっ」と舌打ちしたり、とにかく様々なことで表出しそれが相手に伝わっているのです。

 それが、先程も言いましたが、オンラインでは非常に伝わり難いのです。音が聞こえない、表情が見えないということに代表されるように、物理的に伝わりにくいことが大きいです。

 ここで足を止めて考えなくてはいけないことは、コロナになり、オンラインを活用する子どもたちが増え、対面である時にさえ「他の人に意思を伝えない」ことが増えつつあるとしたら、それは非常に怖いことです。たった2年のことかもしれませんが、「人に意思を伝える」ことに関して、オンラインネイティブ世代が増えていったら、互いの意思疎通が非常に難しくなり、ふとしたきっかけで爆発することにもなりかねません。

 つまり私たちは、「生」で表出しているもの_相手に「受け止めたよ」と意思表示すること_を、対面でやることに加えて、オンラインでどうやるかを考え続ける必要があります。
 例えば、私がZOOMのバーチャル背景で、その瞬間に伝えるというのも一つの手段でしょう(これが100%ではありませんが)。

 いまは過渡期なので、どんなことでも試すべきです。そしてそれは、オンラインであれ対面であれ、どちらにも大切なことだと私は信じています。どちらが良い悪いではなく、本当に欲しているものは何かを考え、どうしていくのが良いのかを、これからも考えていこうと思います。

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