楽しむとは、楽しませるとは。
楽しむとは、じぶんを知ること。
楽しませるとは、相手を知り、相手に勧めること。
じぶんを知ることは、楽しむターゲットはじぶんで、じぶんの好き嫌いが何かを知ること。
勧める時は、ターゲットがじぶんとじぶん以外の他人だ。
勧める相手によっては、勧めるじぶんの体験を話すことで、興味を持ち、じぶんごとのように価値を見出す人がいる。勧められたものを通して、じぶんの未来を少し想像してみる。体験者本人の感想や意見は、これにあたるだろう。
中には、想像がつかないため、勧められたものの質や役に立つ情報、売れてる、流行ってるという情報で、価値を見出す人もいる。あるいはお値段も要因に入るだろう。通販番組や店舗の販売員の情報はこれにあたるだろう。
想像がつかないけど、じぶんの知り合い、特にじぶんと価値観が似ている人、憧れている人、尊敬している人などの見解を基準に、価値を見出す人もいる。インフルエンサーなどの情報はこれにあたるだろう。
知り合いのコピーライターの方と先日飲んだ時の話。その人は、よく人の話を聞くのが上手だと言われるそうだ。
彼の職業柄、自分の知らない物事について、普段からその良いところをクライアントから聞いたり、じぶんで知る試す習慣が身についている。
さらに彼は、その物事の良いところを踏まえてじぶんでそれを楽しめるようになっているという。おそらく、良いところを聞いて、じぶんの日常生活に落とし込んだり、いろいろじぶんの頭や体を使って、楽しむということを工夫しているに違いないと思った。
だから、楽しんでもらいたい、知ってもらいたい人からすれば、彼の楽しめる姿勢を受けて、話したくなるんだと思う。ぼくも、じぶんの話したいこと、すなわち彼になら話したいなぁと思うことがたくさん会話の中で生まれてきて、気づけば飲み会は5時間が経過して、お酒もだいぶ進んでいた。
いい時間だった。
そこで食べた沖縄料理も美味しかった。
帰り道の酔い方も、普段の飲みの帰りと比べて、心地よかった。
意識もはっきりしていた。
ぼくは楽しんでいた。
彼も楽しんでくれていたら嬉しい。
一方、彼にとって相性が悪い、興味が持てないものもあるのかもしれない。そういう時はどうしているのか?と勝手に考えてみた。
たぶんモノの見方を変えて、伝え方を変換しているのではないかと想像してみた。
僕は、それはじぶんの楽しみ方を工夫して、さらに他人への楽しませ方、すなわち伝え方も工夫しているのだと思った。
物事の本質部分だけを語れば、人によっては、味気ないもので、楽しくないものかもしれない(じぶんも含めて)
でも、肉付けの仕方、いわばモノの見方や伝え方を変えることで、楽しみ方は変わる可能性があるし、他人への楽しませ方も変わるかもしれない。
ただし、嘘をいうわけでない。
もし、楽しむことについて、どうしてもじぶんの中での嘘を言わないといけない状況なら、沈黙をとった方がいい。
なぜなら、楽しむことができなければ、じぶん以外の他人を楽しませることはできないと思うからだ。
そこに想いがあるかないかだ。
どうしても楽しませることを求められたら、それを楽しめる人にお願いして頼った方がいいと思う。
仕事を辞めて、4ヶ月。以前の過去の仕事の過程を振り返ってみた。
いろんな嘘をついていたと思う。相手に合わせて、ご機嫌をとるために、褒めたりするし、相手の不満に合わせて、その言葉に同調した言動を返してたりもしてきたと思う。
ましてや、自分が楽しくないことを相手に勧めたりしたこともあったかもしれない。
もっと悪い時であれば、自分で試したこともない体験でも、わかったつもりでいたこともあっただろう。
油断すると、たまにわかったつもりで話していることが今もある。
そういうことを少しでも減らして、ましな人間になりたいと思う。
楽しかったことを思い出す時にそこまで大きく印象に残るものがあまりない(じぶんだけかもしれない)がよくよく思い出せば、楽しかったと言えるが、その楽しさの度合いは、断続的で、小刻みなモノばかりだ。
仮にすごく楽しかったといえば、それは、だいぶ思い出補正がかかっていることだろう。
最近考えるのは、楽しんでいると思われる今をどれくらい五感を研ぎ澄まして、楽しいと感じられていることなのかなと思う。
それは刹那的で、すぐに過去になる。
余韻は残しつつも、しばらくしたら、過去そのものになる。
ツイッターやインスタの投稿履歴や、スマホで写真が取られた瞬間が、ある種、心揺さぶられた、あるいは楽しんでいる瞬間だったとも言える。
以前、オーストラリア旅行で熱気球に乗った時も、あの時の宙に浮いた感覚やカメラを落としてしまわないかという不安などの感情は、今や楽しかったという記憶からは、だいぶ離れてしまって過去となっている。
ウルル(エアーズロック)の登頂を果たした時の、あの静けさと照りつける日差し、登山中終始ぼくのまわりにまとわりついていたハエの音も、過去だ。すべては、ぼくの頭のわずかな楽しかった記憶とともに、スマホの写真や手帳の日記にその時の感情が閉じ込めれている。
楽しかったよりも今楽しんでいるかが、楽しむということなのではないかと、あらためて思うようになった。
その今楽しんでいる姿を、じぶん以外の誰かに伝えられたら、一番ダイレクトに楽しませることができるのではないかと思う時がある(相手によっては、羨望とは別に嫉妬や嫌悪を抱かれることもあるが)
一方で、楽しかったと思われることを、後で、どういう風に伝えるかも、楽しませ方の1つかもしれない。話し方がうまい人なら当たり前にやってるかもしれないが、話すのが苦手な人は、写真やツイッターで端的に伝えることはできる。
じぶんが楽しんでいる想いを誰かに伝えられることが、楽しませることの最低限の条件な気がする。
もし、想いが伝わらない時は、相性や好き嫌い、見てる視点、伝えるタイミングなどが違うからだろう。
すなわち、今度は相手を知り、相手のことを想像する力が必要だ。それはもしかしたら、そう思っていてコミットするにはツライ作業かもしれない。
でもそれが、より楽しませることへのさらなる条件だ。
じぶんを知り、そして相手を知ることが、楽しむから楽しませることに繋がる。
ぼくは、これからも模索していくことになるだろう。楽しむことに、そして楽しんでもらうことに。