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秋について考えてみたけど、ただただ寂しい気持ちになっていた。ちびまる子ちゃんやじぶんのこととか

このnoteは、投稿される1週間前ぐらいに書いた原稿だ。だから、この原稿を書いてる最中の心情と投稿された後の心情は、たぶん変わってるかもしれない。

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#日刊かきあつめ 9月のお題が「秋」ということで、数ヶ月後にやってくる秋について漠然と思い浮かべながら、さて何を書こうかと考えていたのだけれど、何も思いつかない。


ただただ、寂しい気持ちや虚しさや淡い希望やら複雑な感情がじぶんの中で湧いては消えて彷徨っている感じがなんとなくある。そういう気持ちになるのは、秋のせいなのかは、現段階では、よくわからない。直接的には関係はないし、偶然起きたことなので、無理に結びつける必要はないのだけれど、ある人の訃報を受けて、さらに寂しい気持ちが増した。


『ちびまる子ちゃん』の原作者さくらももこさんが、先日亡くなられたニュースを受けて、寂しい気持ちになった。いや、本当に寂しいかどうかはよくわからないんだけどね。なんて言ったらいいか、言葉にできない。


子供の頃よく見ていたTVアニメ『ちびまる子ちゃん』を思い出した。まる子とまる子のお姉ちゃんがシーチキンの絵柄の入ったノートを取り合う、第1話の姉妹喧嘩が印象に残っていて、当時そのやりとりが滑稽でおもしろかった。家庭教師のお兄さんが家にやってくる話や母の日にまる子がお母さんにハンカチをプレゼントする話(たしか)は、うるっとした記憶がある。子供ながらに、共感していたんだと思う。


いつからか日曜に放送しているTVアニメも見なくなって、気づけば約28年の月日が経っていた。じぶんはいつの間にか大人になっていて、子供の頃に慣れ親しんだ作品の原作者や役者を見送る立場になっていた。まる子のお姉ちゃんの声をされていた水谷優子さんが亡くなられた時、「いなくなる」ことへの違和感を感じていた。


もういないんだなぁ。


子供の頃、どこかでずっと漠然とじぶんがよく見て聞いていた存在が「いなくなる・なくなる」ことはないんだろうなと思っていた。


さくらももこさんに限らず、子供の頃から知っている存在が「いなくなる」というのは、なんとも言えない気持ちになる。


「いなくなる」と自覚する体験が増えていくことで、「生と死」について考えていくことが増えていくんだろうな。


「いなくなる・なくなる」という喪失に対して、どう向き合っていくのがいいんだろうか。もし、身近な人や家族だったら、じぶんはどうなるんだろうかと漠然と考える。ぼくは、まだその体験をしていない(亡くなった親戚の猫については、以前心情を書いてみた)

取り留めのない、一時的な感情の起伏の流れで、今回書いてみた。


実は、さくらももこさんの訃報のニュースを聞く前日までは、別のことで、寂しい気持ちになっていた。じぶんが退職して2ヶ月以上経っての心境を振り返っていたことでだ。


今回の彼女の訃報を受けて、そっちで感じたことを優先したいなぁと思った。また、別の機会で、じぶんの退職については、書こうと思う。

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読んでくれてありがとうございます。
今回は書いてる最中に思ったことを、そのまま書きました。じぶんでも当初秋というお題で目的を持って書こうと思ってたのですが、考えているうちに違うものになってしまって、日記のようになってしまいました。


投稿する直前で、1週間前に書いたこの原稿をあらためて、読んでみたのですが、原稿を書いていた当時の寂しさは薄れた気がします。理由は定かではありませんが、亡くなった方とじぶんの距離感や関係値が大きいですし、原稿を書いた後の1週間でじぶんの周りを取り巻く環境や時間軸が一時的に非日常であったことなど、いろいろ理由があると思います。


でも、また時々、突然に、ぶり返すように、寂しさの感情がやってくるのかなぁと思っています。このような感情を、何回も感じて、思って、考えていくことになるのだろうと予想します。手前勝手な感情ですが、仕方がないです。でも、その感情に対して前向きにじぶんの中で向き合っていくことは必要かなと思っています。

#ちびまる子ちゃん #さくらももこ #水谷優子

サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。