『演技と身体』Vol.3 ”人間的”なるものを越え出る
”人間的”なるものを越え出る
曖昧な”人間的”範囲
具体的な身体の使い方の話に入る前に哲学的な思索を一度挟んでおこう。
演技を通じて表現しようとするものは総じて”人間的”なものの範疇だろう。人間的な感情、人間的な業・罪などなど。しかし、この”人間的”の範囲について考えてみると案外曖昧なもの(というか恣意的なもの)である。
白人を中心(人間)として有色人種を奴隷(非人間)としたり、ゲルマン民族を中心としてユダヤ人などを迫害したり、人類にはこの”人間的”という範囲を巡る暗い歴史がある。つまり、”人間的”という枠組みには常に中心と周辺があり、人々はしばしその周辺に追いやられた人たちを人間扱いせずにきたのだ。
こうした傾向は現在もなくなってはいない。サナウス・テイラー『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』では、障害者たちが健常者中心主義によっていかに動物化されてきたかが語られている。
我々が作品を作る時には、意識的にであれ無意識にであれ、こうした”人間的”なるものへの立場が問われる。そして、当然ながらアーティストとして、”人間的”であることの意味を常に揺るがせなければならない。それが芸術の役割だからだ。
”人間的”なるものの拡大
さて、この”人間的”という考えと向き合ってきたのが人類学だ。面白いことに近年人類学では「人間的なるものを越え出る」という考えが出てきている。こうした考えは人類学的知見がアニミズムに触れる中で、人間を中心から考えるのではなく、辺縁から考えるようになった中で生まれた考えだ。人間と非人間の境界に立つとそこに画定的な線は存在せず、あらゆる動物・物質にさえ人格を認めうることが理解される。
レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』には、シベリアの狩猟民・ユカギール人たちが森に入る時にエルク(鹿の一種)になる様子が描かれている。これは必ずしも比喩ではない。彼らは狩猟に出る時、エルクの毛皮をまとい、エルクの足音・鳴き声を真似し、エルクの思考を辿る。
これは何を示唆しているだろうか。僕の考えはこうだ。
”人間的”であるということは”動物的・植物的”であるということを含むべきだ。
人間を動物・植物との対比で考えるのではなく、人間の中にある動物性・植物性を見つめるのだ。人間を捉えるのに、従来の意味での”人間的”という枠組みでは狭すぎる。
動物性は人間性の土台である
人間的特質はその土台に動物的・植物的な特質を備えている。しかし、普通考えられている”人間的”なものはその土台を無視した表層的なものに見える。
解剖学者の三木成夫は、人体を生命の進化的な時間を含むものとして捉え、身体を植物由来の内臓系と動物由来の体壁系の二重構造から成ると考えた。
言われてみれば人の血管の行き渡る様子は植物そのものであるし、筋肉や脳が動物的であることは言うまでもない。
身体の構造の観点から言えば、人間に特有に発達しているのは大脳の新皮質と呼ばれる部分である。この大脳新皮質の働きのおかげで複雑な感情や思考が可能となる。しかし、この新皮質もその他動物由来の脳に上から覆いかぶさっているのであり、構造的にもその土台となっている”動物的”な脳の活動に支えられていると見るべきである。
さて、こうした観点を演技論に持ち込むなら、人間特有の複雑な感情だけを問題にしているのでは、表面的で不十分だという考えに至る。
今後、身体の在り方を考えていく上で、”人間的なるものを越え出る”意識が欠かせない。動物的、植物的な領域にまで潜って、そこから出発して身体や感情を捉え直すべきだ。犬や猿をも感動させるような演技をしなければ嘘である。
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