『演技と身体』Vol.13 イメージ思考②
イメージ思考②
いないものとの関係性
「お化けを見た」と怖がっている人がいたら、あなたはその人になんと言葉を掛けるだろうか。
「お化けなんていないよ」と言って慰めるだろうか。あるいは「見間違いでしょ」と言って受け流すだろうか。
お化けが実際にいるかいないかというのはわからないが、ここでは科学的な立場をとって、お化けなんていないということにしておく。
しかし注目すべきことは、お化けの存在自体がたとえ嘘だったとしても、お化けを見たと思った時に感じた恐怖は決して嘘にはならないということだ。
だからお化けを見て怖がっている人がいたら、お化けを否定する前にまずその人の感情に寄り添うべきなのではないだろうか。
これは信仰の問題などにも関係するだろう。神や魂というものが実在するかどうかはわからない。しかし、たとえ実在しなかったとしても人はそれらのものと関係を結ぶことができるのだ。
幻影的アフォーダンス
バレエダンサーで振付家のウィリアム・フォーサイスのLinesというワークはこうした人間の特性をかなり具体的な方法論に落とし込んだものだと言える(短い動画なので是非見てみてほしい)。
手などで自分の目の前に幾何学的な線の物理的なイメージを描き出し、そしてその線を動かしたり、避けたりするのだ。実際にやってみると。そうしたイメージ上の線に自分の身体がもぞっと反応するのがわかる。
このように自らが作り出した幻影的なイメージに身体が影響を受けるということは表現において大きな可能性を開く。
たとえば、これを少し応用して、目の前に描いた線に重さや硬さといった質的な要素を加えてみよう。するとその重さや硬さを腕の筋肉が感じるのがわかる。
第9回の記事でアフォーダンス(人が物などから受ける動作への影響)について書いたが、なんと人間は実在するものだけでなく、想像したイメージにさえアフォードされ得るのだと言える。これを「幻影的アフォーダンス」と呼ぶことにする。
具体的な物を出現させる
フォーサイスのワークでは幾何学的なイメージが中心に扱われるが、より具体的なイメージに応用することもできる。
目の前に、今度は線ではなく一本の草を生やしてみよう。どんな草でも良い。そして、その草を引き抜いてみる。根っこがするすると土から抜ける感じがかなり実感に近いものとして感じられる。
さらにもう少し非現実的なイメージも可能だ。自分が巨人になったつもりで目の前に、手のひらサイズの桜の木を描き出す。そしてそれを手で握り潰してみる。手のひらに枝が突き刺さって折れる感触や隙間から花びらが散って飛んでゆく様を感じることができる。
今度は目の前に水の塊を出現させてみる。そしてそこに自分の顔を突っ込む。水面に顔が着いた瞬間、思わず息を止めて目を閉じてしまう。耳の奥に、ないはずの水圧を感じる。
このように幻影的アフォーダンスを活用してイメージと身体を関係的に結ぶことによって、言葉に落とし込むよりも遥かに複雑でニュアンスに富んだ感情表現が可能になる。
この時注意すべきこととして、そうしたイメージとの戯れがパントマイムと区別されなければいけないということである。パントマイムというのはあくまでショーであり、そこに出現させたイメージを観客にわかるようにしなければいけない。しかし、ここで問題としているのは演技者の身体であり、そこにあるイメージが客観的に見えている必要はないどころか、場合によっては見えないものにする必要さえある。なぜならイメージ自体を目的物とするパントマイムとは違って、演技においてはイメージから得られる感情こそが目的となるからである。
「殺人鬼の気持ちのパラドックス」
さてこうした具象的なイメージの活用によって「殺人鬼の気持ちのパラドックス」を乗り越えることができやしないだろうか。
殺人鬼を演ずるためには殺人鬼の内面に潜ってその気持ちや人を殺す時の感覚を理解しなければならない。しかし、ほとんど人は実際に人を殺したことはなく、また実際に殺人鬼の心理が役者の中で立ち上がってしまったては大変だ。程度の差こそあれ演技者は常にそのようなパラドックスに捕らえられている。
僕はこうした「心理」というものを「イメージ」に置き換えることを提案したい。人を殺すシーンで殺人鬼の中に沸き起こる怒りだとか快楽だとかを直接体験しようとするのはかなり危険であるが、そうした感情をイメージに置き換えて目の前に出現させ、そのイメージに対して働きかけを行うのだ。
たとえば首を絞めて人を殺す場面で、何か逼迫した痛切な殺意を表現しようとする時に、”目の前に毒グモを出現させそれを紙で包んで捕まえる。紙からクモが出てきたら大変なので確実に死んだとわかるまでその紙を執拗に丸め続ける。”というようなイメージに置き換えれば、殺人者の心理を回避しつつ、実際に気持ちは動いているので感情としては嘘のない表現が可能になる。快楽犯の場合なら、”プチプチをひとつずつ潰していく”とか単純に自慰のイメージに置き換えるとか。
そして、こうしたイメージというのは演技者それぞれの人生経験や趣味嗜好によって驚くほど差が出る。つまり、「快楽犯を演じる」というだけだとみなステレオタイプに走り、驚くほど似たり寄ったりな演技になるのだが、各自の想起したイメージを経由して演じてみると非常にその人らしさが表れるのである。
僕の経験上、役者の個性が最もよく表れるのはこうしたイメージの点においてである。
自分の人生経験を差し出すことの危険性
また、殺人鬼の場合とは違って自身の経験と照らし合わせることが可能な場合でも、やはりイメージへの置き換えをするべきだと思う。
一つには、自身の過去の経験を差し出すことには精神的な危険が伴うからだ。”大切な人を亡くした苦しみ”を表現するのに、実際の自分の人生経験をで大切な人を亡くした記憶を呼び起こすのは大変に苦しいことである。役作りにあたって長い時間そうした苦しみに身を置くことは精神的なリスクが大き過ぎる。
また、自身の経験はあくまで記憶であり、”今ここ”の感情ではない。どんなに忠実な再現を試みてもそれは感情としてはやはりレプリカであり嘘になってしまうのではないだろうか。
だから、たとえばその苦しみを”息のできないような”気持ちだとし、さらに”水に溺れて息ができない”のか、”人に首を絞められて息ができない”のか、”喉に石が詰まって息ができない”のか、具象的なイメージを作り出す。そしてそのイメージとアフォーダンス的な関係を取り結ぶことで、自身の経験ではなく想像力から役を創造することができるのだ。
役者という職業が孕んでいる精神的リスクについては第5回の記事でも書いたが、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。
前回の記事でイメージの重要性を説明し、今回の記事ではそれを具体的にどう技術化してゆくかということを説明した。
こうしたイメージによる創造は作品全体、役柄、シーン、動作などあらゆるスケールにおいて役に立つものなので、どのように応用できるかそれぞれが考えて実践してみてもらえたら幸いである。
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