『演技と身体』Vol.12 イメージ思考①
イメージ思考①
「ゴミ」という言葉が全体からゴミを取り出す
「もっと速く」「もっとゆっくりと」「もっと間を空けて」
こうした演出上のコミュニケーションはしばし見受けられるし、僕も使うことがある。こうした明晰な言語はわかりやすく、誤解も生じない。しかし、僕の経験上だとこうした伝え方によって自分の欲しいタイミングが得られたことはない。
なぜなのか考えてみると、それが実は単に速さや間だけの問題ではないのだということを理解していなかったからだと思う。
例えば歩くという動きがあって、それをもっと「ゆっくり」演じて欲しいと思ったとする。それは当然ゆっくり歩くことで表現したい何かがあるからだ。
しかし、そこで単に「もっとゆっくりお願いします」とだけ言ってしまうと、そうした表現上の意図が抜け落ちてゆっくり歩くという表面的なところに目が行ってしまうことになる。
言葉というのは、そこに注目させる力がある。
以前住んでいた家の近くに工事予定の空き地があった。長らく放置されている間に色々な植物が入れ替わり群生して僕はそれを眺めるのが好きだった。しかし、ある時柵のところに「ゴミを捨てないでください」という張り紙が貼られると、それまで特に気にしていなかったゴミが急に見えるようになりとても気になり出した。それだけではない。なんとその張り紙が貼られて以来、ゴミの量が増えたのだ。「ゴミ」という言葉を見て多くの人がゴミに注目するようになり、そして他の人が捨てたゴミを見て自分も捨てるようになったというわけだ。
話を戻そう。「もっとゆっくり」と言われた役者は歩く速さに注目するようになる。しかし、歩く速さというのは表現においては表面の一側面に過ぎず、歩く行為の中には本来もっと多くの要素があるはずなのだ。
意図を超え出る
では、そうした表面的な演出や演技に陥らないためにはどうするべきだろうか。イメージを使うのである。
”ゆっくり歩く”にしても「ゾウのように」ゆっくりなのか「水滴が落ちるように」ゆっくりなのか「獲物を狙うヘビのように」ゆっくりなのかによって想起されるものは全然違う。そしてこのような比喩的な表現は速さの違いだけでなく雰囲気の違いをも含む。つまり、速さを主眼としながらも全体的な意図を損なわずに伝達することができるのである。
それだけではない。こうした比喩などのイメージ言語は、「自分がまだわかっていないこと」をも含むのだ。明晰な言語は自分がすでに理解して整理し、言語化できたものしか伝達できない。しかしそんなに簡単に言葉にできるのなら初めから映画や演劇をやる必要はない。僕らが表現しようとしていることというのはもっと微妙なものなのだ。そしてそれはしばし、自分でもまだ理解できていないことだったり、そもそもそうした物事の”わからなさ”それ自体だったりするのである。
そうした捉えどころのないものを表現するのに、明晰な言語だけでは不十分である。明晰な言語は常に部分だけを説明するのに対して、イメージや比喩は全体を超え出るのだ。
「ゾウのようにゆっくり歩く」という表現には明らかに発言者の意図を超えた要素が含まれている。ゾウの持つ威厳なのか、鷹揚さなのか、重みなのか、あるいはゆったりとした体の揺れなのか。そうした表現から何を汲み取るのかはそれを解釈する側の人間による。しかし、そこにある誤解(誤配送)の可能性はさらに演出家の意図を超えて表現を豊かにする可能性でもあるのだ。
「意識」とイメージ
こうしたイメージは、実は「意識」というものにおいて非常に中心的な役割をしている。
たとえば森でクマに遭遇した場面を想像してみよう。
人間の知覚はこの状況を認識するのに3階層の感覚システムを経る。
知覚の第一階層では「茶色」「牙」「光る目」などなど、クマの部分的な情報を目は捉えて脳に送っている。
そして次の第二階層では、それらの部分的な情報を統合して、「茶色くて牙のあるものが目をこちらに向けている」という絵画的・映像的なイメージが作られる。
そして第三階層では、そのイメージを過去のデータベースと照合して「クマがこちらを睨んでいる」という認識を作り出す。
さて、森でクマと遭遇したら唐辛子スプレーを取り出すなり、ゆっくりその場を離れるなり、何かしらの手立てを講じなければいけないのだが、その時に役に立つのは上記の3つの段階のうちのどれだろうか。それは第二段階のイメージによる情報の統合である。
第一段階の断片的な情報が直接役に立たないのは明らかだろう。しかし、第三段階の「クマが睨んでいる」という情報は抽象的すぎて、必ずしもその状況と強く結びついているわけではない。「クマ」という語は抽象的であるがゆえに様々なクマを指し、目の前のクマの大きさや雰囲気を伝えるものではない。さらに遭遇したものが過去のデータベースの中にないものだった時(宇宙人とか)、この第三段階は機能しないのだ。
第二段階において統合されたイメージは、それがクマであるのか宇宙人であるのかにかかわらず逃走や闘争を促すのに十分である。
このことから、「意識」というものの中心にあるのは言語ではなくイメージであるということができる。(AIR説)
そもそも言語を持たない動物の中にも意識を持つものはいるわけで、そのことから考えても「意識」を担っているのはイメージであると考えるのは自然なことだ。
”今ここ”で演技すること
さて、上記のややこしい議論の中で重要なことは、抽象的な言語は”今ここ”において役に立たないという点である。
しかし、我々は言語を用いたコミュニケーションを基本とせざるを得ない。そこでできるだけイメージ的・比喩的な言語を用いることが推奨されるのである。
演技をする時にも、「ゆっくり動こう」という抽象的な言語に自らを従わせてしまうと、”今ここ”を離れたものになってしまう。”今ここ”を離れてしまうということは、そこにいる役柄や場面の流れや心情からも離れてしまうことになる。
コミュニケーションはイメージの応答
人類学者のエドゥアルド・コーンは、パースの記号論を引き合いに出して、生命そのものが記号過程であると述べている。これは言い換えると、生命というのはお互いのイメージに応答し合うことで生きているということだ。
「茶色くて牙のあるものが目をこちらに向けている」というイメージ(記号)はあなたに行動を促す。たとえば慌てて逃げ出してしまったとしよう。すると、クマの意識には「肉が遠ざかっていく」というイメージが意識として浮かぶ。そしてそのイメージがクマの次の行動(追いかける)を促すことになる。そして、今度は「茶色くて牙のあるものが迫ってくる」というイメージがあなたの次の行動に作用し・・・。という具合である。
これは言葉によるコミュニケーションにおいても同様のことが言えるのではないだろうか。多くの場合、私たちは相手の言葉を文字通りに理解しているのではなく、表情や声の調子や文脈を踏まえた上で相手の言いたいこと(実際に言っていることではなく)を汲み取って理解している。だから、多少言葉が足りなくてもコミュニケーションは成り立つのだ。
これは脚本の読み取りや芝居上の応答にも言えることで、単に言葉を字義通りに読み取るのではなく、あくまでイメージとイメージをやり取りすることが重要なのだ。
(ちなみに、パースの記号論では記号をイコン、インデックス、シンボルの3段階に区別しており、イメージのやり取りというのは第二段階のインデックスを指すが、この段階が先に述べたAIR説の第二段階と合致するのはとても興味深い。)
以上、くどくどと述べてきたが、言いたいことは単純だ。
明晰な言葉を避けて、イメージや比喩を活用せよ!
もちろん、明晰な言葉が有用な場面も多くあり、それが必要な場面もあることは付け加えておこう。しかし、明晰な言葉は痩せていて、イメージや比喩はふくよかであるという使い分けは少なくとも必要だろう。
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