事実認識と事実超越的認識/初ノート
平和を、争いのない状態と捉えよう。そうした平和をバカにする者、軽んじる者、乱す者、そして蹂躙する者… こういった者たちのことを憎いと思う感性は重要である。
一方、そうした感性によって平和を論じ、生み出そうとする発想は正しいのだろうか?
もちろん、そうした発想に基づいて約束や実戦を積み上げていくことは重要だし、有益であろう。
しかし平和を乱す者のことをただ批判することによって平和が訪れると考えるのは、決して正しくない。
米民主党政権は、ロシアおよび他の権威的な国家に対して、事実超越的な認識をもって批判してきた。
事実超越的に平和を希求する態度は貴重であり、平和の事実は尊いものである。
だが、それが結局のところ対話を閉ざし、平和を妨げるならば、話は違ってくる。
現に、それによって平和を台無しにする所業は、これまで幾度となく観察されているのである。
イデオロギーに振り回されずに、対話を閉ざす相手と対話を行い、これによって訪れる平和にコミットするべきこと。
ヴェーバーからマンハイム、トロツキーからモーゲンソーに至るまで、数多の思想家が事実超越的認識に対して警鐘を発してきた。
そうした人類の遺産、ほんとうの知性と知略をないがしろにする行いは、結果責任によって報いられるほかないだろう。