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【エッセイ】 いちご狩りは刹那の贅沢

いちご狩り――それは日本人の「食」への異様な執念が詰まったレジャーである。都会ではスーパーの果物コーナーに整然と並ぶいちごを眺めるだけの人々が、一度「狩り」という言葉を聞いた途端、目の色を変えてビニールハウスに群がる。普段は農薬や食品添加物にうるさい人も、「30分食べ放題」のルールの前では、収穫したイチゴをそのまま水洗いすらせずに口へ運ぶのだから、人間の行動とは実に興味深い。

そもそも「狩り」とは、古代より獲物を仕留める行為を指していたはずだ。しかし、現代の「いちご狩り」においては、ハサミすら不要ない。暖房の効いたビニールハウスの中で、敵意ゼロの獲物がぷらぷらとぶら下がっているのを、ただもぎ取って食べるだけ。何が「狩り」なのか? これでは「いちご収穫体験」あるいは「いちご付きピクニック」と呼ぶべきではないか?

そして、いちご狩りの本質は「いかに元を取るか」にある。(人による)
「元を取る」という言葉が出た瞬間、人は理性を捨て、目の前のいちごと自分の胃袋を限界まで戦わせるのだ。スーパーで1パック500円のいちごが並んでいるのを見て「高い!」と文句を言う人でも、1,800円のいちご狩りには迷わず突撃し、「30分で15個食べた!」と得意げに語るのだ。いや、冷静になってほしい。スーパーで3パック買って家で優雅に食べた方がコスパはいいのではないか? しかし、人間というのは「その場で食べられる」という事実に抗えない生き物なのだ。

また、いちご狩りには「熟れたものから狩られる」という非情なルールがある。早めに行けば完熟の甘い実を堪能できるが、遅くに行けば、先客たちに食べ尽くされ、青く酸っぱいものしか残っていない。さらに、子ども連れの家族が「うちの子がんばって探してるの!」と周囲を牽制しながら良い実を独占する様は、戦国時代の領地争いさながらの熾烈さである。

それでも、いちご狩りには一種の魔力がある。ヘタを落とす手間もなく、いちごを食べたい分だけ頬張る快楽。それは、食卓に並ぶいちごでは決して味わえない「刹那の贅沢」なのかもしれない。

帰り道、満腹の胃を抱えながら「一生分のいちごを食べたなあ」とぼんやりするのも、いちご狩りの醍醐味の一つだろう。
それは、去年はもちろん、来年もきっと同じことを言っているのである。


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