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1931(昭和6)年生の母の聞き書き回顧録

                           

第1回分(2020年9月19日初稿 9月21日 母と姉妹の年齢差記入)

<母と私たち子ども、母の世代について>

 母は2020年9月現在で88で11月末に89歳になります。現在は東京郊外の弟の住まい近くの老人ホームの居室暮らし。私は1957(昭和32)年に母が25歳の時に初めての子供として生まれ、3年後に弟、9年後に妹が生まれました。

 母は昭和の激動期、太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日を10歳で迎え、敗戦の玉音放送のあった1945(昭和20)年8月15日に14歳でした。(国際的に9月2日東京湾上の戦艦ミズーリでの降伏文書調印の日が終戦日とされるがアジアでは8月15日は日本からの解放や勝利の日とする国も多い)

 母の世代は、幼少期から日中戦争の影があり思春期がほぼ太平洋戦争期、1945年の敗戦から1951(昭和26)年9月のサンフランシスコ講和会議を経て連合軍による占領を脱する翌1952年4月28日(母21歳)までは青春前期でした。

 私は母の青春期のことを最初、戦争がだんだんと身近になり、皆が息を潜めるようにして暮らした戦中、日本の現在に至る過程が戦後決定していった、日本史でもまれな激動期と思っていましたが、考えてみると、幕末以降、日本はずっと激動期だったのかもしれません。

<この聞き書きでの私の視点と母の視点との関係等>

 母の立場から1人称で回顧録を書くことは本人にしかできませんが、私は1957(昭和32)年に札幌で生まれ小学校からは東京で育った子の視点、母や父、他からも色々な影響を受けた個人の視点から書いていくことになると思います。

 母への聞き書きの過程で、大正・昭和初期の資料にも触れ、日本人の楽天性や災害多発の国で亡くなった多くの死者、様々な犠牲者たちを忘却する速さ、時々の「空気」に進んで染まり易い傾向などを感じました。

<当時の住環境と母の一番最初の記憶について> 

 母は幼少期に、姉(6歳上。妹は4歳下でまだ生まれていない頃)と両親で神奈川県の逗子の海の近くの借家に住んでいたことがあるそうです。母の父は物書きを仕事とし、母の母が代々川崎にいたので、そこに居を得たのかもしれません。

 現在戸建ての家は大抵、住む人の所有ですが、戦前は、都市部やその周辺に多くの借家があり、そこに住んだり、借家を変えたりすることは、比較的よく行われてきたようです。

 1年程前に、母に一番古い記憶、感覚について聞いたことがあります。一番古いと思われる記憶は、海辺の波打ち際に立っていて、波が退くと、かかとの砂が削られるくすぐったいような感触だと思うと語ってくれました。







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