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1931(昭和6)年生の母の聞き書き回顧(3)

<閲覧者の皆様へ 母は何とか元気です。文章は現在細部を書き換え中。確定後に当説明削除予定>

 なお、第1回と第2回は「です、ます」調で書いてきたが「だ、である」調のほうが書きやすいので、とりあえず、今回からはこの形で書いていく予定。今回最初に載せた画像は、1920(大正8)年27歳で亡くなった母の叔父(祖母の兄)の遺稿集の見開きの頁。その3回忌に25歳の若さだった祖母が兄の紀行文を集めて作ったものである。祖母の兄については下記の文章中に※で説明を挿入した。1920年に没しているので、もちろん母が生まれる前で、祖母の妹が2003年9月に亡くなってから、もう2021年の今年で18年。生前の祖母の兄を知る人間はいなくなって久しい)

 母は東京府豊多摩郡杉並町で出生したと戸籍にあるが、幼少期に父親が借りた逗子の海岸近くの借家に両親と6歳年上の姉、母の4人で住んだ時があった。母が4歳で妹が誕生した時には逗子を離れており、その前のことなので、記憶がかろうじて残る3歳頃から妹が生まれる4歳までの時のことと思われる。母の父親(1904‐明治38生-1986‐昭和61年)の家系は山口県の造り酒屋だったが、2001年に76歳で亡くなった母の姉が晩年その造り酒屋を探しにいった時には、もうずっと前に廃業していて、辿る血縁の者もどこにいるのかわからない状況だったそうだ。

 母の父が若い頃実家から酒粕をたくさん送ってもらったことなどを母は聞いている。母の母親、94歳(満年齢で)で亡くなった富(1898‐1993‐平成5年)は川崎(母の母が生まれた頃は川崎村)で名主の家系とのこと。(川崎市史にも母の祖父の名が載っていたが、ここでは母の人生を辿ることが主眼なので、母の個人的な記憶からの記載にとどめたい)ただし、母がどのような性格の父母の元で育ったのかということはとても重要と思えるので、少々脱線するが祖母とその兄のことを以下に記しておきたい。

 母の母(祖母-以下こうした呼称は私からの視点でこのように記載)がまだ27歳だった時、その兄が27歳で亡くなり、その後に母親が亡くなって、病気(病名要確認)で寝込んでいることが多かった父と妹との3人家族になった。その父の死後は受け継いだ土地に借家を立てたり、土地を売ったりして、妹(私の大叔母)と二人で苦労したようだ。なお、祖母の兄は1893‐明治25年生れで1920大正8年に27歳で病没した。祖母の兄、稲波三一が1920年に亡くなった3年後に祖母がその兄が書いた旅のエッセイなどをまとめた遺稿集「旅路」を自費出版した。今その「旅路」が私の手元にあるため、生没年だけでなくその人柄を知る事ができる。学校を出たあと鉄道院に勤めていた。(鉄道院:鉄道国有化に伴い、明治41年(1908)に設置された鉄道行政の中央官庁。大正9年(1920)鉄道省に昇格。ー以上デジタル大辞泉より)母の父(私の祖父)が借りた住まいの貸主が祖母だったことが知り合うきっかけだったらしい。

※今回冒頭に掲載した画像は祖母の兄(稲波三一)の遺稿集「旅路」の目次手前の見開き頁で、右頁は当時22歳だった祖母が5つ歳上だった兄三一へ捧げた歌、その左頁に三一による水彩スケッチ。右の献辞の裏頁には、祖母が兄に送ったこの歌への返歌「限りある  此(実際は旧字)の世の旅を打ち捨てて 無限の旅に上がらんとす今」がある。時間的にはその返歌の前に祖母が兄に捧げたのが 右側頁の「よみ路への門出を送る悲しさにいざさらばはや行きますか兄君よ 旅路に当てのなきぞ悲しき」ということになる。いよいよもう命も尽きそうな段階で祖母の母から祖母の兄に対してもう助かる見込みのないことを告げたのだという祖母による説明が巻末にある。

 ずっと前に母から、祖父と祖母の出会いは住まいの借主と貸し手との関係で祖父がまだ早稲田大学の学生だった若い時ということも聞いている。その時に父が借りていたのは借家ではなく一棟の中で沢山の居住者が住むようなアパートか祖母一家が家の一部を賃貸しした借間だったのではないかと想像してみる。これについてはまた今度母に会える時聞いてみよう。(なお、老人ホームにいる母とはコロナ禍の現在直接会えず、母は手足が不自由なため携帯電話はあるが、電話でのやりとりも通常は難しい。2020年11月に面会室で会ったときに、この母の叔父にあたる人が100年前の1920年に27歳の若さで亡くなったのは1918~20年に大流行したスペイン風邪が原因ではないかと聞いてみたが、はっきりした死因はよくわからないとのことだった)

 前回も記したように、母は幼少期に逗子に住んでいたことがあった。母が語った幼少期の記憶の中で、この土地につながる記憶は、先に書いた波打ち際で海水に浸した足の感触と、雨戸が家の角で直角に曲がるという借家の記憶の他に、祖母が持っていたものについての記憶がある。それは玄関に置かれていた(包みに包んで立てかけられていた?)琴の記憶である。母は母親が琴を弾いたのは見たことがないというが、逗子の借家になぜその琴が置かれていたのかについて、母は、自分に習わせるつもりで持っていたのかもしれないと、先月(2020年11月)に会った時に話してくれた。

 祖母自身も以前琴を習ったことがあったのだろうか。祖母もまたその琴を弾きたいという気持ちもあって、結婚して住んだその借家に琴を置いていたのかもしれない。音楽や楽器について、祖母は私のような孫や子(私の母や叔母)が覚えているような話は残していない。また、父の弟の連れ合いが晩年までずっと琴の先生をしていたという例外はあったものの、家族では私の妹がピアノを小学校から高校まで習い音楽的才能に秀でていた以外、血縁では音楽に結びつくような人間が過去にいたという話も聞いたことがない。

 母はこの11月以前に会った時に聞いた話だが、世田谷区立松原小学校の時代(昭和10年代)のクラスメートにピアノを家で習っている女の子がいたそうで、うらやましく思ったという。実は私は世田谷区内の小学校に通ったが最初の習い事としてオルガンを習った時期があった。何か子供に習わせようと母が考えた時に、祖母が祖父と所帯を持った逗子の借家にあったという琴のことを思い出したかもしれない。(父の弟―私の叔父ーの妻が生前琴の師匠をしていて、有名な盲目の事演奏家で作曲家の宮城道雄に師事したそうで、彼女自身に聴いた話はとても興味深いが、母に関するこの話と別の所でまた書いてみたい)

 私が小学生でオルガンをならった頃は、私たち家族は大叔母の元に居候していた。大叔母と書いたが、祖母の妹でその夫が早く亡くなってがらんとしてしまった家に私たち家族が住まわせてもらったのだ。2階を建て増しし、玄関を入ったところの階段から上がる2階で大叔母は寝起きする形になっていた。私たちきょうだいは大叔母のことを、2階のおばちゃんとか、おばちゃんとかの呼び方をしていた。私の妹は私より9歳下なのでその多摩川の河岸に近い家に住んだのは幼稚園に入る前だった。妹にとっては5歳で移り住んだ団地に比べると多摩川近くの家はあまりはっきりした記憶はないかもしれない。それにしても今思えば本当にこの大叔母にはいくら感謝しても感謝し尽くせない。今の日本社会では、その時の大叔母のように、夫と死別し独身になった身で姪の一家(私たち家族)を家を増築して受け入れるということは想像しにくい。

 私の小学校時代のクラスで何人も(それも私を含め男子も何人かいた)オルガンを習っていたことから考えると、当時世田谷の私が通った小学校の母たちの間で、子供にオルガンを習わせることがはやっていた可能性がある。中流という意識を持つ人が非常に多くなったのが戦後の昭和30年代から40年代にかけての特徴だったらしいが、そう言われてみれば、私も含めたクラスメートのほとんど中流家庭の子のような印象を持っていた。

 大金持ちはいなかったが、かなり大きな家に住んでいる級友は小金持ちの家庭の子だったかもしれない。そして相対的には貧しい家庭の子もいたのだが、それは後年思い返してあらためて気づいたことで、子供の頃は、それを意識からは遠ざけ、皆同じ仲間という気持ちが強かったような感じがする。社会全体にまだそのように助け合いの意識があった。一人一人、あるいは家族単位でまとまってしまう傾向の強い今の日本からは想像しにくいだろう。これも書物やその後の社会体験などから歴史への興味が深まってわかったことだが、その一方で差別や偏見がまだ根強く残っている時代でもあった。

 母の父母は、父の父母もそうだったが、孫を甘やかさない人たちだったように思う。母方の祖父は私の小さい頃は孫たちを遠くから見守る感じで、あまり親しく接するようなことはなかったが、学生時代に様々な体験や世の中についての話をしてくれた。勤め始めて最初の年賀状を送った時に、勤めという文字を私が「謹め」(この誤字はあまりにもひどいが確かこの文字に)間違えて書いて送ってしまい、葉書に「「謹」めではなく、勤めに出ること」とだけ書いた年賀状の返事をもらったことがあった。

 祖父からその年賀状をもらった時は、情けなさと、もう少し一般的な祖父が孫に対するような言葉が欲しいと思ったものだが、63歳の今の私は、その祖父の気持ちがよくわかる。同じ時期だと思うが、その祖父の妻である祖母からも年賀状をもらった。そんなことは1度しかなく、珍しく、嬉しかったので今もずっと取ってある。内容は、7人の孫の中で毎年年賀状をくれるのは私だけということや、「お金持ちなぞにならなくてよいのです。正しく生きていくのが一番です。がんばってください」という言葉が記されていた。

 祖母は晩年でもかくしゃくとしていたが、下部が袴のようになった部分(と形容するのも古いが「はかせ鍋」というようなネーミングではなかったかと思う)によって熱がより効率的に伝わる鍋を見つけて購入して使ったり、「レシピってどういう意味?」などと私に聞いたことが印象に残っている。母の父や母はそんな人たちだった。

 ずいぶん回り道をしてしまったが、母の幼少期に住んだ逗子の借家の玄関にあった琴の他にもうひとつのエピソードを挙げておきたい。逗子時代のあと世田谷の松原の借家(京王線の代田橋駅と明大駅の中間の線路近く)に母が両親や姉、妹と住んだ頃、祖父が山口から別府に移っていた祖父の父(私の曽祖父)の元に疎開した長女(母の姉)に書いた戦時中の葉書の中に、「母さんが台所でスカンポの歌を歌っている」という文があった。(祖父から疎開していた長女や妹に書いたたくさんの手紙が残っていたので、祖父の3人の娘がそれを編み自費出版しているのでこうしたことが今もわかるのだ)歌は昭和5年発表の北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『酸模(すかんぽ)の咲くころ』で「土手のスカンポ ジャワ更紗(さらさ)~ ♪」という出だしである。母は今もそれを歌える。

 祖母は歌う姿を孫の前で見せたことがなかった。母に以前聞いても、よく歌を歌ったということはなかったという。しかし音楽好きだったのだろう。私の母も特に音楽好きとは言えない。いずれにしろ、祖父が書いたその部分の前後には戦時中の窮乏生活の様子が描かれている。祖母は自らを鼓舞あるいは慰めるために歌を歌って気を紛らわしていたのではないかと思う。

 母の姉は2001年の9月11日(正確には母や私たちがそれを知ったのは12日の午前だったが)に急死した。1925‐大正14年生れだったのでまだ76歳だった。当時9.11のニュースの溢れる日で、6歳下で、満年齢だと69歳だった母はその時は親が死んだ時よりもショックが大きかったと後に語った。父や私がその時いた信州の家で大きな二つのニュースにおろおろしている時、母は庭に出て、何やら歌を歌いだしたのを私は覚えている。歌を歌ったりする母など見たことがなかったので驚いたが、母はその時、戦時中の祖母のように歌を歌うことで必死に精神的苦痛を緩和させていたのかもしれない。

 このあとは文章確定遅れのお詫びと今気になっていること(確定後削除)

 母に、今回(第3回)の初稿は見せているが、確定版をプリントして手紙と共に送るためにも、そろそろ文章を確定したいのだが、雑事に追われたりして遅くなっていることをお詫びしたい。文章の確定をネットではだらだらと書いてしまうが、数年前の母ならきっと、一読後「文章が長すぎる。脱線のし過ぎ」などと感想を述べたことだろう。そろそろ文章を直して仕上げたいと思う現在、母の6つ上の姉(私には叔母)の人生のこともとても気になってきた。

 今年80周年になる1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦時に、母は10歳だったが、母の姉は16歳で、現在の文京区竹早高校(当時は府立第二高等女学校)に付属していた教員養成課程に小学校(戦時中国民学校と呼ばれた)教員の資格を取るために、京王線の代田橋駅から通っていたのだ。蛇足だが私は住まいのある文京区内の小石川地区や千駄木地区をよく散歩して歴史に思いを馳せる。

 都電の路線図では文京区役所前(現在春日の文京シビックセンターの区役所に移る以前)とあるところあたりで、母の姉は降りていたのだろうか、とか、昭和22年に小石川区と本郷区が合併したので戦時中は市電(路面電車は都電と呼ばれる前1911年に東京市が民営だったこの路線を買収して東京市電となった)に、どこで乗り換えたのだろうかなどとよけないなことを考えてしまうのである。当時母の姉は家族で住んでいた借家の最寄り駅だった、京王線代田橋駅から渋谷に出てから、神保町と春日町で路面電車の市電を乗り継いだのか、あるいは渋谷からは山の手線に乗り新宿駅で中央線に乗り換えて当時は停車しただろう水道橋で降りて春日まで市電で、そこからはわずかなので市電の2駅分は富坂を歩いて府立第二高女まで通ったのか、等々。1889(明治22)年東京(の一部?)が市になった時は東京府東京市だったのか、その辺は今後調べなければならないが、府立高女の呼び名は一貫していて市立高女とはなっていないようである。


 

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