エイプリルフールは苦手
新年度になりました。新年度の初日はいつもエイプリルフールですが、私はあまり好きではないです。とくに、Xのエイプリルフールネタが苦手。
10年前はそんなことはなかった。リアルと虚構をないまぜにするTwitterと、エイプリルフールの相性はバツグンに良かった。ウソがセンスの良いネタでありえた。
でもいまは違う。リアルと虚構のバランスが崩れ、虚構が増えすぎた。タイムラインにはフェイクニュース、パクツイ、AI投稿、インプレゾンビが横行していて、その中でウソをついてもなんの面白味もない。ひどいウソがタイムラインにあふれ返り、ウソがXの日常になってしまったからだ。
そんなタイムラインの治安の悪化に対して、Xユーザーたちは少しずつ、フェイクやAIを見抜いてスルーするリテラシーを身につけ、ゴミだらけのXの中で快適にすごすコツをつかみつつある。
しかし、そのリテラシーを邪魔するような、微妙に判断に迷う投稿をしてくるのがエイプリルフールで、「えっ?これってフェイク?なんだろう?」と、いちいち立ち止まって判断を強いられるのがとてもストレスだった。
むかしはそういう、リアルかフェイクか分からないのが面白かったのに、いまではそれがわたしをイライラさせる。4月2日になってまだ「おすすめ」に出てくるのにも閉口した。
たぶん、エイプリルフール投稿の内容自体は、10年前と今であまり変わっていない。しかし、タイムラインの環境が変わってしまったので、受け入れられなくなったのだろう。
ウソをつくこと自体は別に否定しない。人間だから、ときには保身だったり、体裁を気にしたりして、ウソをついてしまうこともある。ズルいウソや、悪意のあるウソなら別にいい。
でも、ズルくないウソとか、悪意のないウソというのはどうも苦手で、イタズラやいじわるの一種で無邪気なウソってあるけれど、ウソは必要に迫られてつくものではないだろうか。
だから、そもそもエイプリルフール自体が好きではないのだ。令和の価値観に、誰かをかついで笑うというのはフィットしない(「水ダウ」のような番組はあるけれども)。そのうちエイプリルフールはすたれるのではないか。
「朝日新聞」のデータベースで検索すると、1930年代前半から「四月馬鹿」という単語が当たり前のものとして使われているので、おそらく日本に広まったのは大正時代あたりだろう。
100年の歴史ある行事だが、終わるときは終わるものだ。私は衰退の兆候を、もっと言えば末期的なものを感じとっている。
今後は、有名人や企業アカウントが荒唐無稽なネタで和ませるとか、気宇壮大な夢を語るとか、そういう、誰も傷つかないエイプリルフールへと変質していけばいいんじゃないかと、個人的には思っている。
ウソだらけのXであえてウソをつくことの意味について、みなさんはどう思いますか。