見出し画像

こぼれ落ちる311の記憶

東日本大震災から13年がすぎた。

あの日、私は水戸にいて、激しい揺れに見舞われたので、個人的な震災の記憶がある。見た光景や、聞いた音だけでなく、何を感じたか、何を考えたかも覚えている。

しかし、記憶が風化しているような気がする。自分の中でも風化しているし、日本社会の中でも風化しているように思う。せっかくだから、忘れる前に記しておきたい。

ニュージーランド地震の残像

強烈な揺れが来たとき、最初に頭をよぎったのは「建物が崩れたらどうしよう」ということだった。

というのも、震災の約3週間前にニュージーランドで大地震があり、鉄筋コンクリートの商業ビルが倒壊したのだ。何人もの日本人が巻き込まれたので、テレビニュースは倒壊したビルを何度も映し出した。

震災当日、その画がフラッシュバックしたのは私だけではないはずだ。いまでこそ、きちんと造られた鉄筋のビルはそうそう崩れないと知っているが、当時はそんなことは知らないのである。

私は人文棟4階の自分の研究室にいた。最初は部屋の中で呆然と立ちつくしていたが、あわててつけたテレビが停電でプツンと切れた瞬間、急に「逃げなきゃ!」と我に返り、棟のはじっこにある階段までダッシュして、駆け降り始めた。その間、揺れ始めてから1分くらい。

覚えている人も多いと思うが、揺れはそこからが本番だった。

3階に来たあたりで、ゴゴゴゴという大きな音がしたと思ったら、床が右に左にすごい振れ幅で動きはじめ、階段と廊下のつなぎ目に設置された防火扉がいっせいにガッシャーンと閉まった。

階段エリアに閉じ込められた私は、ピンポン玉のように左右の壁に打ちつけられながら、何度も尻もちをついては手すりにつかまって立ち上がり、ジグザグに階段を下りていって、なんとか1階にたどりついた。防火扉の出入り口を開けて廊下に飛び出し、そのまま自動ドア(たぶん開いたと思う)から建物の外に脱出した。

いま思えば、部屋でじっとしているほうがよほど安全だった。あの揺れの中で階段を下りるのはかなり危険で、転げ落ちて大ケガしてもおかしくなかった。それでも階段に出たのは、ニュージーランド地震の残像が見えたからだ。

ニュージーランド地震と東日本大震災の時系列が忘れられつつある現在、あのときの私の思考回路は、語り継ぎにくいものになったと思う。


日本沈没が頭をよぎった静岡県東部地震

もうひとつ、忘れ去られるであろう当時の感情として、震災発生から4日後に起きた静岡県東部地震の緊張感をあげたい。

私は震災翌日にタクシー相乗り(3時間待ちくらいで乗れた)で茨城を脱出し、東京の自宅に戻ってからずっとテレビを見ていたのだが、3月15日の22時半、NHKで緊急地震速報が鳴り、富士山付近で震度6強の地震が発生した。

これは私だけではなく、全国の視聴者の顔から血の気が引いたと思う。震度を報じる青山アナも、揺れるスタジオであからさまに「これってマズくないですか?」という狼狽(ろうばい)した表情をしていた。

東北地方の余震を報じている最中のできごとだったので、なんかもう、あちこちが揺れて訳わかんないという雰囲気が、テレビ画面に満ちていたのである。

震災当日の深夜、長野県北部から中越・上越にかけての地域でも震度6強・6弱の地震が起きて、なんで東北から離れた場所でそんなに揺れるんだと話題になっていた。そうしたらこんどは静岡で地震で、さすがにこれは、東海地震が誘発されたのではと疑わざるをえない展開であった。

東北、長野北部、静岡と続いた大きな揺れに、このまま日本が沈没してしまうのではないかという緊張感が日本を覆った夜だったと思う。

しかしその後、問題の中心は原発に移っていき、揺れそのものへの恐怖感は少しずつ薄らいでいった。あの緊張感が語り継がれることはもうないかもしれないが、私たちの感情を激しく揺さぶるできごとだったのは確かだ。


なにごとも、いま振り返ってどう見えるかと、当時の人がどう見ていたかは別ものである。

災害のただなかにある人は、最終的にこの災害がどんな結末を迎えるのか知らないので、その場その場でとりあえずイメージする未来にしたがって思考し、行動する。太平洋戦争下の日本人もそうだったろう。

私がイメージした未来は、ビルの倒壊であり、日本沈没だった。そうはならなかったのだから、もう忘れていいのかもしれない。あのときの私のイメージは、震災の記憶からこぼれ落ちていくのだろう。

でも、当時の人々がリアルタイムで何を感じ、何を考えていたのかというのは、あとからその現象を考えたい人にとって貴重な資料になるはずだ。

そう思ってとりあえず書いてみた。私の震災体験がどれだけ一般的なのか分からないが、何かの足しにはなるだろう。