声をあげることに対して冷ややかな目線を送る人たちの話
こんにちはこんばんは、花札師のこーへいです。
大雨、各地で凄そうですね。
さて本題へ
「声をあげることに対して冷ややかな目線を送る人たちの話」
今週の月曜日までの17日間、東京オリンピックがありましたね。
日本の選手たちもたくさんのメダルを持って帰ってきてくれました。これ自体は本当に素晴らしいことです。
その一方で、開閉会式が想像以上につまらなかったり、新型コロナウイルス感染者数が過去最大になったりと、負の側面も見受けられました。
そんな中で、オリンピックの開会式最中まで、オリンピックの開催反対と声を上げているデモ活動の人がいました。新型コロナウイルスの蔓延のおそれがあるから、利権による一部のためのもの、バッハ会長に対する苦言などなど。
彼らの行動は日本のメディアではあまり取り上げられなかった印象があります。でも海外メディアはここぞとばかりに取材をしていました。
それに対して、特にネット上では、冷ややかな目線を送っている人たちがいました。「コロナとかいっておいて、お前らのほうがコロナになるようなことをしている」「開会式にまでデモをするなんてみっともない」「もう始まったんだから、愉しめばいいじゃん」云々
世間の概念には、セットとして「水を差す」という言葉がついてきます。これは、みんなが盛り上がっている雰囲気をぶち壊すことは良くないという考え方なのだと思います。今回のデモは、この水を差す言動だという認識で間違いないでしょう。
しかし、ですよ。
そうした人たちもついこの間までは、こんな中でオリンピックできるんかよ、なんて呟いていたじゃないですか、なぜ開催した途端にオリンピックに賛成してしまうのでしょうか。
その答えの1つとして、これはよく言われることだと思いますが、声を上げないことはマジョリティにイエスと言うことと一緒だからだと思います。
ただなんとなく、オリンピックを楽しめればいいやと家でゆっくりテレビを見ている人が、自分の声を上げている人を潰していいことにはなりません。自分の意見を言うことは大歓迎ですが、人の意見を潰す、ましてマジョリティがマイノリティの意見に冷ややかな目をもって潰すなど言語道断です。
オリンピックを行う意義の一つに「多様性」がありました。
あのよくわからない開会式も、アナウンサーの解説によれば多様性の象徴らしいです。
しかし、マジョリティが声を上げているマイノリティに冷ややかな目線を送るこの日本社会の、どこが多様性?なのかよくわかりません。
別に私は、マジョリティが意見を言ってはいけないとは一言も言っていません。ただ、それがマイノリティの意見を潰すようなものだった場合、考え直すべきだし、場合によっては控えたほうがいいよね、そうじゃないとマジョリティに潰されやすいマイノリティの声は浮上しないよねってことです。
排除の法則と同じようなことだと思います。
「原則、何者も排除してはいけない。ただし、排除するもののみを排除しなくては、何者も排除しないことはできない。」
オリンピックを開催するというのは、上記のようなことをよく考えるということでもあると、今回改めて思いました。表面上でしか多様性を表現できなかった日本でのオリンピック。やっぱり新型コロナウイルスのことも相まって、中止の判断が妥当だったのではないかと思います。
そう考えると、やはり今回のデモ活動を行った人たちの行動は合理的な判断だったと思います。マイノリティとして意見を浮上させるにあたって、たくさんの海外メディアも来ているという中で行動するというのは他に類を見ない表現だったかと思います。SNSじゃあ、結局いいね数で決まっちゃいますからね。
もちろん、何度も言いますが選手の皆さんは素晴らしかったです。自分に与えられた環境で精一杯の挑戦とスポーツマンシップを見せてくれたことに感謝です。
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