2017年Facebookに投稿したメモ。
ふと思い立ってFacebookに投稿したメモをサルベージしてアーカイブしておくことにした。だいたい思いついたことを言語化して定着させるためにFacebookに投稿してきたもの。その後繰り返し使うようになった表現や、書いたきり忘れて居たものもある。でも僕の思考の最初のアウトプットはいつもFacebookだった。今年もありがとう。来年もよろしく。
1/6
人が自発的にやろうとしないことをサスティナブルに強制するのは無理だと諦めるところからマネジメントははじまるという仮説。できるのはフィードバックでリアルな自分の姿に気づける機会を作ってあげることと、進んで詰めたくなる魅力的なお弁当箱を作ったり選んだりして渡すことくらいだ。
強く出たり、キレたり、無視したり、しつこくしたり、報酬への欲求をエサにしたりしてもサスティナブルに人の生産性を引き出すことはできないとまず諦める。できるのはまずはフィットする人材が働きたくなる会社になるための今できる全てをやる。そして妥協なきエントリーマネジメントをすること
その上でよく観察し続けること、めんどくさがらずネガテイブなものを含めたフィードバックをこまめにすること、適材適所に配置すること、理想を共有して、その実現と結びついた目標を与えること。相談に乗る時間を確保しいつでも相談できると思ってもらえる姿勢を保つこと。
それでも動かない、チームに貢献する行動が取れない人が出てきたら、その時は適切かつ迅速に、そして可能な範囲で手厚く丁重にバスを降りてもらう以外に方法がない。人をムチ打って矯正したり、エサで釣って動かそうとすることは不可能だし、誰のためにもならないのだから。
1/5
他人のポテンシャルを引き出すのが「良質な問い」だとして、そのような問いの条件が「出題者が明確な解答を持っておらず、かつ答えを本当に欲していおり、だからこそ多少待っても答えが欲しいと思える」だとするなら、知らないことが多いリーダーほどワークするという仮説が成り立つ?
もう少し正確に言えば「知らないことが多い」ではなく、「知りたいことが多い」リーダーが、良質な問いを投げることができるリーダーなのかも。言い換えれば視点が高く、多くのことが視界に入っていて、好奇心があるので、知りたいことが沢山あるが、各分野の専門知識には欠けているリーダー。
1/15
DIY欲というのは広義の権力欲だと思うんだよね。世界は自分の思う通りにならないので、思い通りになるサイズにセグメントした世界をコントロールすることで代償行為を成立させてる。いわゆる趣味、仕事、スポーツなど夢中になる対象には当てはまる。
思い通りにはならない世界で、思い通りにならないことを嘆き続けるのでなく、思い通りにできる世界内世界を見出してそこにフォーカスして生きるのが、仕事に生きることであり、趣味に生きることであり、スポーツに生きることであり、すべての夢中に生きるということなのかも。
4/25
昨日、僕らがやろうとしていることは、アートの世界や個人の精神性の中でしか表現されていなかったロマン主義をビジネス中で表現することの有効性を実証することだとわかった。
「ロマンティックにビジネスする」ことがぼくらが求めていく課題なんだなと。
ポストモダンは「ネオロマン主義(*僕の造語)」なのかもしれないな。モダンが先鋭化してビジネスインフラが徹底的に合理化され、生産性が極限まで高まったからこそビジネスマンがロマン主義的に行動しても生産性はさほど落とさずにロマン主義の良さを表現できる状況が整った。だから今こそロマン主義復興の契機なのかもしれない。
ロマン主義の対置は功利主義だろう。産業革命以降にロマン主義は一旦功利主義に道を譲ったわけだが、産業革命の局地にたどり着いた先に改めてロマン主義が復興するのかもしれないな。
ビジネスにおけるロマン主義の表現としてわかりやすいのは、「愛」で現時点における「事実」を否定し、「愛」に基づいて意思決定することで現時点における「事実」を超えようとすることだろう。例えばデータドリブンなスタンスの否定、PDCA的な取り組み方の否定、短期的事実を否定して、「愛」が持てるかどうかを判断基準にすることで、短期的事実をひっくり返せると考えること。
ドラッガーがポストモダンはモダンの道具を十二分に活用すると書いていたことと、ロマン主義は高度に功利主義的なインフラでこそ花開くという仮説は似てる気がする。
4/29
僕らができるだけオルタナティブなやり方、あり方を目指しているのはロマンティストだからなんだよな。そしてロマンティストのまま功利主義者に勝つことができたらさらにロマンティックだから成功を追いかけてるわけだ。
で、なぜ僕らがロマンティストになったのかといえば、18世紀に行き過ぎた教条主義にによって抑圧されたきた人たちからカウンター的にロマンティシズムが生み出されたように、自分たちが社会の中でマイノリティだと感じ、マジョリティから抑圧されてると感じてきたからに相違ない。
僕はずっと自分は道具としてロマンを使ってる気でいたわけだけれど、なんのことはないただのロマンティストおじさんで、ロマンティストがロマンティストにならざるを得ない理由はようは「生きづらかった」というなんと言うことのない情けない理由なんだと思う。
ロマンティシズムは功利主義的マジョリティへプロテストなんだなと。
「ロマンとソロバン」と言うような表現だと、それらは両極にあって、バランスを取るべきものだと感じるわけだけども、実際には、ロマンの先にロマンを維持したままソロバンまで合うことになったらなおロマンティックじゃないかと、だからソロバンを合わせようとするわけだ。
ソロバンだけ<ロマンだけ<ロマンとソロバンの順でロマンチック度が高くなる。ロマンにソロバンを合わせようとしている人は適度に功利主義でバランスが取れているからではなく、「お前中二病かよ」というレベルでロマンティストだからそうなるんだよね。でも恥ずかしいから露悪的に振舞ってるだけ。
「わたし利益を出しながらロマンを求めるジレンマに疲れました、、ロマンだけを先鋭的に求めたいです!」的なこと言ったらあたかもよりロマンチックな意思表示な感じがするかもしれないけれど、それはロマン主義的観点から見ても「後退」であり「妥協」だからさ。
5/9
何か目立った問題があることが自明な場合の問いは「問題は何か?」で良いわけだが、今特段問題がないうちに長期的な視点からさらなる卓越を目指す時や、今ある素晴らしさを永続させることに取り組む時に「問題は何か?」という問いしか知らない人が不思議なほどワークしない。
この場合の適切な初期の問いは「今までうまくいっていたのはなぜか?」になるはずで、これを解き明かすのは解決すべき問題が明白な場合と違って非常に難しくとても時間を要するはずだし、拙速に結論を出して見立てが間違っていた時の悪影響が半端ない。
例えば素晴らしく機能している干潟を長期的に維持し、広げていこうみたいな課題にとりくむ環境学者みたいに取り組むべきじゃないかと思う。こういう仕事を今の「問題は何か?」を探す態度で臨み、精度の低い仮説をたくさん立ててそれを試してPDCA回すような取り組み方をしたらあっという間に素晴らしい生態系の干潟がみるも無残な姿になるのは自明だと思う。
この場合「今までうまくいっていたのはなぜか?」という問いを立て、可能な限りアクションをせず、仕事の大半は観察とそれにもとづく研究とレポートに当てるだろう。
そして長い研究の過程でまさにそのエコシステムを肌で感じ、直感で良し悪しがわかるようになってようやく最小限のアクションを起こして環境に関与するだろうし、最後までアクションを起こす必要がなくても「高い見識を持った人」が「観察し続けた」価値は大きい。
世の中の仕事ができる優秀な人の多くが「問題」がある場合の「火消し」で頭角をあらわしてひとかどの立ち位置を手に入れていることもあり、問題らしい問題がないがさらなる卓越や、永続性へのチャレンジには不慣れだったりする。
そのようなチャレンジに必要なのはアクションよりも観察と研究、アウトプットよりもインプットが仕事という場合が少なくない気がする。
この辺のことはもう少しスッキリ言語化できたらちゃんとまとめたい。
5/9
過剰に下から来る人って結局流派の違うマウントしたがりマンなだけだからダサいよね。ほんと主導権とかいらないから、めんどくさいし。で、必要な時は取れるからさ、いらん時に取ろうとしてなければ。
5/15
ダイビングキャッチして補給する内野手と、打球の飛んでくる方向を予測して正面で難なく補給する内野手では、素人目には前者が上手く見えるのと同じで、上手くいきすぎているものは、つまらなく、凡庸に見えるという仮説。
同時に商業スポーツの真の成果は勝利ではなく、コンテンツとして面白いことだとすると、誰もがミスなく後者のようにプレイできる状況ならおそらく課題設定が間違っている。単純にゲームの難易度が低すぎてゲームバランスが悪いのだ。
プレイヤーが勝利を上げることだけを目指しても、追い込まれて凄い動きをせざるを得ないゲームバランスが商業スポーツには求められる。
営利企業ももはや儲けることが目的ではなく、さりとて実際に解決するべき課題など本質的にはほとんどないわけで、存在意義は商業スポーツと同様プレイヤーの働きによって感動してもらうことなのかもしれない。
だとするとビジネスモデルが素晴らしく、保有資産も十分で、盤石な事業をやっていては、存在意義が薄く、もっとギリギリで個人の凄い動きとか判断とかで左右されるようなゲームバランスの上でやったほうが良いということになるのかも。
5/25
価値づくりをするためには自分のうちに妄想の泉が必要。価値は概念なので自分の外を探し回っても正解はどこにもない。
自分がピュアに憧れられる妄想の世界を正解にする作業こそ価値づくりなんだよ。
外界からのインプットがその妄想の材料になることがあっても、妄想力のないところにいくら材料を積み上げても何も立ち上がらないよね。
5/25
いつも退屈している人は「知覚力」が足りないんだな。いくらインプットを増やしても、インプットからより多くの「意味」を知覚できなければいつまでたっても「つまんない」まんま。若い社会人がよく「単純作業つまんない」から「やれることいっぱいある」に変わる瞬間ってあるけれど、これって「知覚力」が上がって同じ情報から引き出せる情報が増えて面白くなってる状態なんだな。
6/12
大人のADHDの本を読んでつくづく思ったのは、今自分が得意とすることは、ADHD的なハンデを持つ自分の脳を支える「杖」として鍛えられた部分なのだなと。
感覚的にはうまく情報を整理できなくてパニックになりやすいので、カオス化した複雑な状況を素早く整理するメソッドを持つ必要があったり、複雑な物事を理解するのが難しいのでアナロジーで理解し、アナロジーで説明するのが得意になり、それは抽象化思考やパターン認識能力の向上に繋がっている。
衝動性をコントロールすることを40年以上続けてきたがために人並み以上に感情面のセルフコントロール力が身についていているなどもそうだし、一人の自分だけでは全く何もできないのでパートナーを見つけ、モチベートして協力してもらう術を身につけてきた気がする。
僕が時間を神経質なほど気にして、それこそ集合時間の30分前に現地につくように動くのも、課題を早すぎるタイミングから意識して、動き出しが早いのもすべてはADHD的な自分を信じていないからなんだと思う。
7/9
100人、1000人、10000人の男性を束ねて成果を上げるための仕組みは古代から、建築、軍隊、という二大大事業を通じてそれこそ数千年の歴史を持って練り上げられて来てるけど、100人、1000人、10000人の全員が女性、あるいは半数以上が女性という組織は歴史が浅く、数千年間男どもを束ねるために使われてたメソッドが援用されてる状態だ。この状況で女性に活躍してもらうのは難易度が高い。女性が中心的な役割を果たす大きな組織のために初めから設計されたマネジメントモデル、組織モデルってどんなものになるのかをもっと研究した方がいいし、それこそが今アカデミックな経営学に求められているフロンティアじゃないのかな。
7/18
ぼくとしては、科学や近代合理主義がオワコンになったからパラダイムシフトが起きたというより、科学の恩恵が一定以上に行き渡りコモディティ化したので、どう生きたところで前世代と比べると圧倒的に生産性が高くなった。すると個人の選択でより生産的である、より合理的な選択をするということのインパクトが誤差の範囲くらいに小さくなってしまった。怠惰でも、非合理的な選択を続けても十分な生産性が出てしまうインフラの上で生きてるからだ。
なので何らか差異化しようとすれば超合理主義的インフラの上で合理性ではなく個人の思いを中心に置いた選択をする行動様式(ロマンティシズム)を選択することに一周回って合理性が出てくる。
実は科学によって宗教の勢いが弱められた近代の初めにロマン主義は台頭したが、プラグマティズムによって駆逐された経緯がある。あれから数百年経って、多くの人に超合理的、超生産的なインフラが提供されてるいま改めてプラグマティズムに対するロマンティシズムのチャレンジが行われてるというようにぼくには思えるんだよね。
8/2
ぼくがもし本を書くとしたら描きたいテーマって
「弱くても勝てます」
に尽きる。強い人がすごいという話を聞くほどに燃え上がる「弱いままで勝ちたい」欲。
特に感受性が強く、繊細な人のための事業づくり、会社づくりの本はあと10年くらいやって、一応勝ったってことにしても許されそうなぐらいに成功したら書いてやりたい。
強いやつに、強くならずに弱いままで勝ちたい。
そう思うだけでメラメラしてくる僕はやっぱりどっかおかしい。。
8/16
「経営学」とはtoBの宗教としての役割を果たしてきたし、ますますそうなることが求められる気がする。
8/30
例えば中国で日本語をつかった仕事をしてもらう人を探そうと思えば、必然的に母数が少なくなり、高給を払うことになるだろう。
しかしそうやって雇えるひとは「日本語」ができるだけであって、「仕事」ができるかは未知数である。あるのは母国語以外の言葉を学ぶ力があるという事実だけだ。
その仕事の前提となる知識や技術を持っているということは確かに希少価値があることなのだが、それは「仕事」ができるということとは全然違う。でも前提となる知識や技術を持っている人が少ない仕事の人ほど、本人も周囲も「仕事」ができると思い込んでる場合がある。
その人について確実に言えるのは「希少性」があるということで、「仕事」ができるかはやってもらわないとわからないんだよね。
9/1
儲からない事をやってるだけ、損してるだけだったらそれは狂ってるんじゃなくてゴッコ遊びなだけ。損してそうで儲けてるところが狂ってるんだよね。
損するのも、当たり前のやり方で短期的に儲けるのもイージー過ぎる。
狂ってるっていうのはよりエクストリームな方法で実現するって事。
普通に乗ればいいのに自転車の上で逆立ちしたりするようなもの。逆立ちしてケガしてたら狂ってるんじゃなくてダサいだけ。普通に自転車に乗ってたら誰の記憶にも残らない。華麗に逆立ち決められたら下らないけど感動がある。
より難しい方法で成功させた時他人は「狂ってる!」って言ってくれる。
9/6
美しく、快適なままで、大きなインパクトをつくれることを証明したい。
逆説的だけどそのためだったらどんな苦労も、プレッシャーもいとわない。
苦しそうなものや、熱狂や、見るからに汗かいてるものの方が共感呼ぶのはわかるけど、フラットで、コンフォートで、ニコニコしてるものが勝つ!っていうストーリーもたまにはあった方が希望があるじゃないですか。
少しづつでもそういうあり方を応援してくれる人が増えて行くと良いなあw
9/11
周囲にコストかけさせてるけど、自分は他にはないパフォーマンスあげてるから、、みたいに思っている奴がいたら「お前は宮崎駿なのか?」「お前はスティーブ・ジョブスなのか?」と問いたい。
そしてその二人じゃないなら、己のパフォーマンスの最大化より、まず周囲にかけさせてるコストを削減する方が全体のパフォーマンスには貢献できると思うよと。
9/11
世界を変えようじゃなくて、世界をつくろう(空き地にw)。
9/12
世界を変えたり、既存のものをぶち壊すより、みんなで末長く幸せになることの方がずっと難しいし、アグレッシブな課題なんだってことをわかってくれる人が増えるといいなと。
9/13
定性を定量にして意思決定するのと、定性を定性のまま受け取って意思決定することがもしどちらも正しい意思決定ができるなら、定量化のプロセスを踏まないぶん、後者の方が生産性が高い。多くの場合定量化にまつわる効率の悪さを異常に進化したコンピューターの演算機能でカバーしているのでそれが表面化し意識することは少ない。
また定性を定量にして意思決定した後で、改めて定性的世界でその結果を反映する過程で電気的抵抗が伝送効率を妨げるように本来ホリスティックに受け止めるべき事象がその一部しか意識されないようになるリスクもある。
本来文系の学問というのは定性を定性のまま扱って真理にたどり着くための力を身につけるためにするものだと思うのだけれど、文系までがやたら理系チックなアプローチを誇示するようになったら実はもっとも結論まで最短距離で行ける可能性がある定性を定性のまま扱って真理にたどりつく技術はどんどん退化していく気がする。
9/14
インターネット産業に大きく貢献したのは
WEB上のデータアセットを「サイト」という空間的広がりのある言葉で表現したことじゃないかと思う。
例えばWEBを「本棚」や「図書館」的なメタファーで捉えて「WEBブック」とか「WEBパンフ」と表現していたら初期の制作予算は会社案内制作並に小さかった可能性がある。
そしてそれから20年近くたった今はもっと小さくなってる可能性も。
でも「サイト」とか「ホーム」というようなそこに空間的広がりがあり、作るものは「場所」であることを意識させる言葉が使われたことで、高めの相場が形成されインターネット産業が滑り出し訳すなったし、その後に続く多様なアイディアが生まれるきっかけになった気がする。
よくわからないものをどんなメタファーで表現するかで、その領域の可能性の大きさが決まってくることを考えると、些細なことに思えるが、とりくむ対象に魅力的で余白がたくさん作れてワクワクする意味づけをすることはちょー大事だと思う。
9/15
ゴールドラッシュの時には金掘らないで、金掘る人のための道具を作るやつが儲けたっていうエピソードを語りつつ金掘ることから逃げてるやつはもうgoog nightですよ。
まじ自分で掘ろうぜ。楽しいよ。
9/18
10年前の今日「北欧、暮らしの道具店」を公開設定に切り替えたことで僕の人生が始まった。既婚子持ちの35歳だった。
周りを見たら僕のスタートの年齢で、既に大きな成功を収めたり、すごい力量を発揮したりしてる人もいるが、僕の35歳の時はびっくりするくらい丸裸だった。
若い時、見えたり、わかったり、そしてそれを説明するのは得意なのに、実行できてない口先だけの自分、責任を回避しようとする怠惰で臆病な自分が疎ましかった。
10年頑張って、大した負債も抱えてない代わりに、大した資産もつくれてないが、実行できているという喜び、責任を引き受けられているという自負心が持てていることがありがたい。
成功は時の運。
だから将来に渡ってずっと自分の手の中にあって欲しいのは、実行できている喜びと、責任を引き受けられているという自負心。
次の10年も自分を疎ましく思わないで済むようにやっていきたいなぁ。
9/20
科学的に経営することができるためには、変化が乏しいところに足場を置く必要がある。変わらない前提があるからこそ高速でPDCAを回すみたいなことができるわけだ。全ての変数が複雑に変化したら科学的にはやれない。そういう意味で科学的な経営ができる環境とそうでない環境があり、北米や北ヨーロッパ、日本などの国は科学的経営に向いた統治機構の安定がみられるが、それ以外の地域で科学的経営をやるのは合理性がないとも考えられる。
9/22
アイディアとか明確なイメージがある人はディレクター向きなんだけど、自分の適性を誤ってプロデューサー的に動くと悲劇が起こる。
勝てるかどうかに関係なくやってみたいことをやっちゃう。それはその適性の人のモチベーションが成功することじゃなくて頭の中にある面白いものを形にすることだから。
ディレクターは勝てる場所の選択はできない。だから領域選択には関わらないほうがいい。逆にプロデューサーには卓越したコンテンツはつくれない。
プロデューサーはアイディアやイメージは乏しいが、勝てる場所とその構造を見抜く職能。
プロデューサーが詰めるべきお弁当箱をつくり、ディレクターは中身を美味しく綺麗に詰める。その分業が一番うまく行く。でもほんとに貴方はディレクターでしょっていう人がプロデューサーをやってたり、枠組みとか構造が見えてるだけで、それが実現した世界をありありと細部にわたって見えてないのにディレクターをやろうとしてたりして悲劇が生まれる。
9/25
相互が信頼して組織の総意として、権限を所属員が共有する形がホラクラシー型だとすれば、相互が信頼し組織の総意として、権限を信頼する特定の人物に集中させるのが理想的なヒエラルキー型だ。
双方とも相互信頼を元に組織の総意として選択されているとしらたどちらにも理がある気がする。
過度な分権がもたらす弊害も、権限の集中による弊害も、どちらも「機能不全」になるリスクは同じだし、そのリスクはICTの発展で解消しやすくなっている。
ただどちらを取るにせよ、「リソースの集中こそが力である」という原理原則は変わらない。
だから相続はもともと長男に集中させるなどして財産は本家が代々相続しつつ、分家の面倒を見る責任を負うみたいなシステムでリソースの分散を防いできたし、戦争でもっともよくないリソースの運用方法として「戦力の逐次投入」があげられたりする。
ホラクラシー型のテーマはまさにリソースの分散をどう避けるかだし、ヒエラルキー型の場合にはリソース配分に関する意思決定の精度を高めることがテーマになる。
僕的には仕組みとしては事業ドメインと集まっている人の向き不向きで決めればいい話でどちらがどちらより良いみたいなものではないと思っている。
この話は権限の所在の話であり、フェアネスや幸福度の話とはレイヤーの違う話であるからだ。どちらの仕組みでもフェアネスと幸福度は追求できるが、権限をどう定義するかによってリソースの使われ方が変わり、事業成果が変わる。
ようは自分たちにとってどちらの仕組みが最良のリソース配分につながり、結果事業成果につながるかって話でしかない。ホラクラシーのほうが最適なリソース配分がなされるならそちらの方が良いし、ヒエラルキーの方がそうならそちらを選べば良いと。
9/25
僕らみたいな小さな会社の人は、小さいが故に軽んじられたりもしてるので、「義は我にあり」みたいな状況になった時にイキりやすいのはわかるんだけれど、やっぱ異なるサイズ、異なる環境、異なる事情に適用できる汎用的解なんてないんだからあくまで世界の選択肢を増やすケースを一つ増やしただけだという控えめなスタンスでい続けたいよね。しかもまだ現在進行形で歴史の洗礼を受けてないわけで、そもそも長期的にみて正しいかは目下実証実験中でしかないしさ。もちろん大きいってだけでイキってる奴はもうgood nightなのは論を待たないわけだけどもw
10/9
自分の仕事のやり方を考えると、達成欲、競争心などが薄いので、ゴールしたい、勝ちたいという気持ちをモチベーションにすることはほとんど不可能。だけど着想して活発性でやりはじめるのは性、、でも戦略性でシミュレーションすると自分がやりはじめたことをやり遂げるのに必要なモチベーション(達成欲、競争性、最上志向など)を持ち得ないことを見抜くので、実際に本気で何かを始めることは少ない。始めるとしたらそもそもモチベーションがなくても続けられ、続けさえしてれば自ずと勝てる設定が必要。また着想が生かせ、やる事が自省の材料となるというモチベーションでなんとかしのぐ必要があるため課題設定自体がかなり話として面白い必要があった。エグゼキューションの徹底で勝負する必要がある課題に迎えないのもこの辺が理由だ。
また活発性を持ってアクティベートするのは得意だが、達成欲がないため、ゼロイチから先を達成欲のある人に引き継いでもらえる体制がないと結果に結びつかない。
なので
1/頑張らなくても勝てるドメインの発見
2/ノレる面白みのある戦略の構想
3/エクゼキューションに長けたパートナーの獲得
の3つの機会がそろって初めて幾ばくかの機能が果たせる。
こんなやつが10年以上会社を経営してこれだなんて奇跡だし、多分二度と同じ奇跡は起きないと思う。
11/27
多動力ならぬ、不動力もまた力なり。ぼくもどちらかというと多動心をもって生まれてきたと思うんだけど、何の因果か本当に整った心持ちでいられるのは多動な自分を解放している時ではなく、むしろ自制できている不動の時間を持っている時だと思う。
多動を解放するのも一つの力、そしてそれを自制して心を整えて人生に臨むのもまた一つの力だと思う。
要は自分の流派を見極めて生き方、やり方を文脈として編むこと、他の流派に敬意を払うこと。
多動心を抱える流派から枝分かれした、多動の心を律することを重んじる傍流の流派の門弟として精進していきます。
11/27
今日はストレングスファインダーのワークショップ中に、自分はそもそも収集心という強みがあるので何かを決める(捨てる)のは苦手なことであって、苦手な作業をいろんな別の強みを使って頑張って決めてるんだなということに気づいてしまいました。どうりで私生活では何も決められないはずだわ。
というかそもそも大きい大方針以外できるだけ自分で決めなくて済むように経営してたなと。
そんな社長で大丈夫かと思うわけですけど、しょうがないよね人間だもの。
11/27
小売業はファンド運営と同じようなビジネスで金融業に近い。
ファンドは調達したお金で、有価証券に投資して運用(売ったり買ったり)して利ざやを稼ぐ仕事。
小売は調達したお金で「商品」に投資して運用(売ったり買ったり)して利ざやを稼ぐ仕事。
だからPLだけ見てて売上とか利益をみてても商売の状況の半分以下しかわからなくて、重要なのは総資産に対してどのくらいの利回りを生み出してるか(ファンドなら総額10億のファンドが毎年どのくらいの利回りを産んでるかみたいなこと)だから、指標としてはROAとか交差比率などBSとPLの両方の数字を掛け合わせた指標で見ていくべき事業。
11/28
品行方正がツマラナイって思い込みでしょ。むしろよりコンフォートにトリップするための方法論だし、あり方だと思うよ。なかなかそうなれない自分にジレンマはあるけど、だからと言ってそこにある価値をステロタイプな見方で安く値踏みして、そうなれない自分を慰撫するなんてみっともないからできないよ。
12/3
ほんとトップのやることって、面白そうな悪手、カッコイイ悪手に手を出さないことに尽きる。
悪手は魅力的な形をとって目の前に現れるから選択されてしまうわけで、その時に光速にそれを悪手と仕分けるための信頼できる「べからず集」を持っているかどうかにかかっていたりする。
12/11
人は希望の総量が減退すると近視眼的な利得に乾く生き物な気がする。世代論というよりも個別の人の希望の量によって乾いたり乾かなかったりするのかなと。そして傾向としては加齢に比例し可能性が減退するため、若い時には乾いていなかった人がおじさんになって乾くみたいなことがあると。また社会が真の意味で閉塞していると若いうちから乾かざるを得ない。だからむしろ今の「乾かない」と言われる若者の大半は希望がないからじゃなくて、ロマンティックに生きていける可能性を大いに感じているからそれよりも低い価値しかないと感じる近視眼的利得に乾かないのかも。若い時にロマンティックに生きる希望を持ている人は近視眼的な利得に乾かない。だから学生運動みたいなことが過去にも起きている。しかしそれらが失敗に終わったことで希望の総量が小さくなると近視眼的な利得に乾き始めるみたいなことが起きたんじゃないだろうか。まとまらんけどとりあえずここまでのメモ。
12/18
帝王学的なものって成功した後のために必要なんだよな。成功するノウハウは世の中にある程度流通してるし、成功した人は身につけてるんだろうけど、成功した後うまく生きていくためのノウハウが帝王学的なものなんだろうなと。それはなかなか教えてもらえる機会がないし、学ぶ必要性を感じれるタイミングも意識しないとなかなかこない。例えば「学歴」が成功するための最低限の能力を担保するためのものだとしたら、「家系」は成功した後上手に振る舞うための最低限の能力を担保するものとして機能するものなのかもしれない。
僕には学歴もなけりゃ家系もないけどなw
12/22
「どう伝えるか?」以前に「どう関係をつくるか?」だし、それ以前に「どうあるか?」なんだよね。
どうやったら聴いてもらえるかを考える前に、聴いてもらえる関係をどうつくるかだし、そもそも関係を作りたいと相手に思ってもらえるあり方をどうつくるか。
12/25
サービスやメディアが衰退するのは、やってる側の切実な「動機」を伴って始まったものが、ある時点で適切にそれが継承されなくなり、サービスやメディアの「スタイル」だけが受け継がれるようになり、自己模倣そのものが目的化してしまうことではじまると理解することに決めた。
そうであるならやってる側に切実な「動機」が維持されており、その動機が正統性の根幹となることで、その動機を果たすためのスタイルはあくまで手段であり変更可能なものであることになる。
なので繁栄のために必要なのは動機が一貫性と切実さを増していくことであり、飽きさせないようにスタイルチェンジすること、あるいは既存のファンを満足させるためにスタイルに固執することではない。
そう考えると僕たち共同創業者のチームは創業以来その動機付けの切実さは増しこそすれ薄れていないし、そのためだったらスタイルなんていくらでも変えたいし、逆に必要がないのにスタイルを変えたいみたいなエゴもない。
僕らはただただ動機に奉仕する者でしかない。
この考えには最近至ったのだが、自分たちのサービスがどの時点で陳腐化してしまうんだろうとヒヤヒヤしていたんだけれど、この定義が正しければまだまだその日は遠いなと確信できた。
次の10年もグイグイいけそうという気分で今年を締めくくれそうです。
12/27
僕が以前から今あるマネジメント体系は男が大量の男をマネジメントするための体系であって、女性が大量の女性をマネジメントするためにもっとフィットした体系を作ることができるはずだと言ってきてるんだけれど、最近振り返りによる言語化のパワーというものを実感するにつけ、いわゆるナラティブアプローチと言われるものを軸にマネジメント体系をつくればその方法論はもはや男性より女性の方により親和性があり早く理解でき、使いこなすための土壌もあるし、ただおしゃべりをしてるだけのように見えてすごい結果が出るみたいなことが起こるかもと思ってワクワクしている。
いやおしゃべりのパワーすごいよ。とにかくおしゃべりしてれば結果が出るって言っても過言じゃないくらいすごい。
なんで振り返りによる言語化(ようはおしゃべり)が大事かというと
1)もやもやとした気づきや不満を言語化
2)言語化すればその部分を意識化できる
3)意識化できれば適切に判断し振る舞いも制御できる
4)結果が出る
5)なぜ結果が出たかをおしゃべりで言語化
6)言語化できると共有できる
7)結果の水平展開が実現
というサイクルがどんどん回るからなんですよ。
その部分を意識化できると耳を動かしたり、鼻を動かしたりできる人がいるじゃないですか。おしゃべりによる無意識部分の意識化ができると、その部分についてコントロールできるようになり、かつ意識の仕方とコントロールの仕方が腑に落ちる形で共有できるようになるんですよ。
ということはですよ、関わった人全員が正しい意思決定ができるようになるってことですよ。これってすごいことなんですよ。
12/28
ハングリーじゃなくてもアグレッシブであることはできるはずなので、ノーブルだからこそ生み出されるアグレッシブさを追求したい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?