不登校から筑波大学に進学した話

 はじめまして。私の人生は、振り返ってみれば波乱万丈とまではいかないまでも、少し特殊なものであったと思います。
 簡単に書くと、中学三年生で不登校を経験し、そのままN高に進学し、その後に大学受験を経験し、現在の筑波大学に至ります。
 そんな私のこれまでの人生について、文字に起こして、記録として残しておくことには意味があるのではないかと、大学に進学した今になって思いました。そこで、私の少し特殊な半生について、note記事として残しておこうと思います。拙い文章になるとは思いますが、よければ最後まで読んでいただければと思います。


不登校になるまでの経緯

中学までの人生のあらまし

 私の小学校時代は、ちょっと優秀なだけの普通の人物でした。例えば、ペーパーテストはほとんど毎回九割以上の点数を取れるような、普通の公立小学校出身の方には理解していただけると思いますが、そんな程度の優秀さでしかなく、特段天才と呼べるようなものではありませんでした。
 そんな私のちょっと優秀な小・中学時代は、兄の影響に依って形成されたと言っても過言ではありません。私の兄は、とても優秀な人物です。小・中学校で生徒会役員を務め、学業でも中学において一学年約二百人中上位三位程度を維持し、県内トップ高校に余裕で進学し、東大受験にも挑戦するような人でした。
 小・中学時代の私は、そのような兄の「跡を追わなくてはならない」と、誰に言われるでもなく考えていたように思います。この考え方は、後に人生に大きな影響を与えたと思います。その話はまた後でしましょう。
 そのような兄を持っていたために、小学校一、二年生のときには勉強において多少進んでおり、記憶の中では小学校一年生の時点で掛け算割り算ができました。
 小学校三から六年生のときには本を読むことに大変興味がありました。これも兄の影響は多少はあったのかなと思います。兄は科学の漫画や周期表をキャラクター化したイラスト本を買うような人でしたので、その影響もあったのかなと思います。私の小学校は一度に図鑑を二冊まで借りることができるというルールがありました。小学四年生の私は、他の人がはだしのゲンなど漫画を読んでいる中、図鑑を二冊借りていました。借りた本を机の横にかけていたので、掃除のときにクラスメートに迷惑をかけていました。申し訳ないです。
 小学校五、六年生のときには、小説を読むことにハマっていました。小学校には小説の類は小学生向けの文庫本(青い鳥文庫、角川つばさ文庫など)と、海外のファンタジー(ハリー・ポッターなど)しかありませんでした。本当はライトノベルを読みたいと思っていたはずですが、しかたなくそれらを読みまくりました。一番記憶に残っているのは、「オリンポスの神々と七人の英雄」です。これは、絵画の小説の邦訳版で、ギリシャ神話の物語の二次創作的な物語です。これをきっかけに、自由研究でギリシャ神話について調べました。
 ここから中学についてお話します。
 中学時代は私にとって大きなターニングポイントになっています。
 中学に入学したとき、部活を選択することになります。スマートフォンなどの文化がなく、また噂などにも敏感でない私は、自分が選択した部活動が昭和的な顧問によるパワハラ満載の部活動であることを知りませんでした。
 また、中学からはテストの点数で競い合うという新しい競争が始まりました。小学校までは勉強ができてもできなくてもみんなが等しいという空気感でしたが、テストの点数での競争が始まってしまって、誰々が優秀、誰々はテストが何点だといった会話が頻繁にされるようになりました。テスト勉強を頑張らないといけないという空気感は感じていましたが、私は本を読むことにドハマリしており、ほとんど勉強をしていませんでした。中学でした本気の勉強といえば、漢検の準二級を受けるための勉強と、友達と一枚のノートにどれだけの文字を詰め込めるか競っていたしょうもない遊びくらいだったと思います。
 ほとんど勉強をしていなかったために、成績は兄のようにはいきませんでした。一学年約二百人中大体十五位程度だったと思います。

不登校の原因

 私が不登校になった原因は、複合的なものであったと思います。
 ある日、突然私は朝に起きることができなくなり、起きてもめまいのようなものがひどく早退をしてしまい、それっきり一度も学校にいかなくなりました。いわゆるうつ病のようなものであったと考えています。
 いくつか考えられる原因のうちの一つは生徒会だと考えています。
 兄が生徒会をやっていた影響で、私は「生徒会をやらなくてはならない」という思い込みをしていました。しかし、私には生徒会の委員会を自分で回すような力はなかったのです。
 私はある委員会の委員長に任命されました。私は先代の委員長が実施した企画を自分の代でもやりたいと思い、その企画を実施しようとしました。
 しかし、あまりにも自分の能力がなかったために、問題が山積みになり、どうしようもなくなり、投げ出すような形でフェードアウトしていきました。先程述べた部活動の顧問が、委員会の顧問であったというのも追い打ちをかけるようなものだったと思います。
 私には、リーダーとしての責務を完遂するような能力はなかったのです。
 他にも、部活動も原因であったと思います。
 私はいくら練習しても上達しないどころか下手になるような状況でありました。そして、最終的には部活動をやめたいと思い始めます。しかし、部活の顧問が委員会であるという状況がそれを難しくさせました。
 このような複雑な状況によって私の心は疲れていき、結局はうつ病という形になりました。しかし、この状況を作り出したのは実は兄を追わなくてはならないという考えだったのだと、今振り返ると思います。詳しくは言えませんが、部活の選択、生徒会への参加など、すべてが兄を追っていたということが原因になっているのです。

 結局中学生の間には不登校から抜け出すことはできず、そのような状況からでも進学できる学校として、N高を見つけ、進学することになります。

大学受験の話

 私の進路選択は、N高という環境に大きく影響を受けます。
 N高は、知らない人がいるかもしれないので軽く紹介すると、通信制の高校で、年に数日の通学とインターネットを利用した授業の受講に依って高校卒業の資格を取ることができるという高校です。ここでの話もいろいろあるのですが、大学受験に関係のある話だけをしようと思います。
 N高というのは、通信制という性質上、大学受験をするような、勉強において優秀な人というのは少ない環境でした。そのような環境に身をおいたことで、私は進路を見失ってしまいました。
 結局、体調が悪化したなどの理由もあり、本格的に受験勉強を始めたのは三年生の十月でした。もちろん、卒業とともに進学することは諦めて、一浪を前提に受験勉強をすることにします。
 進路を考えたときに、なんとなく漠然と「大学に行く」ことは考えていたのですが、どのような学問分野に進みたいかというのはあまり明確ではありませんでした。最初は心理学を勉強したいと思っていました。そこで上がってきた選択肢が、弘前大学と筑波大学でした。どちらも心理学関係の学科をおく大学です。しかし、本格的に受験を始めるというとき、私はなんとなく理系に進みたいと思うようになります。そこで、横浜に住みたいとなんとなく考えていたために、横浜市立大学の理学部を志望していました。
 大学受験を本格的に始めようとしたとき、とある塾の受験相談に行きます。そこで、研究室から志望校を決めるというやり方を提案されました。
 このとき、なんとなく脳神経科学をやりたいと考えていたことから、脳神経科学をやっている研究室を調べました。そこで、選択肢に上がったのが、群馬大学や、筑波大学でした。
 その後は普通に受験勉強をして、大学受験をしただけなので省略します。一度筑波大学に落ちて、豊田工業大学というところに進学する直前に筑波大学から追加合格の連絡が来て、筑波大学に進学するという話はありますが、本旨とはずれるので事実を述べるにとどめておきます。

おわりに

 ここまで読んでくれた方がいましたら、最大限の感謝を。なにか聞きたいことがありましたらお気軽に以下のインスタグラムアカウントまで連絡をください。