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思考と「言語化」
ユーキャンの2024年の新語・流行語大賞は「ふてほど」。
正直あまり聞いたことのある単語ではなかった。
自分自身テレビにあまり触れない1年間であったため、客観性のなさという点で自分が知らないことを自信を持っていっていいものであるとは考えなかったが、SNSのコメントなどを見るとやはりそこまで流行している言葉ではなかったのかもしれない。
一方で、非常に興味深いニュースを目にした。
三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2024」にて「言語化」が選ばれたというものだ。
大学に通う中で学術用語として「言語化」というものはよく目にしてきていた。ただ私たちが普段の会話をする中で「言語化」というワードをチョイスするシーンは今まで少なかったように思われる。
今年は私自身「言語化」というワードを日常会話で使う機会が多かったように思われる。これは就活期であったことも大きな要因であるとは思うがそれ以上に自らが漠然と思っていることを「言語化」するという思考プロセスを多くとっていたためだと感じる。今まで考えずに入れたこと、考えることを避けていたものに直面した一年なのかもしれない。
2024年元旦にあった能登の地震で私たち関西人は嫌でも東南海・南海地震を頭の中に浮かべる羽目になった。さらに数ヶ月後に起こった南海トラフ付近を震源とする地震によりその漠然とした不安が一気に現実味を帯びるものとなった。自民党の政治活動費という今までなんとなく知られていた「違和感」も漠然としたものから具体的なものとなり、明確なものとなり選挙を迎えた。さらに2月15日には名目国内総生産が世界4位に転落し、日本の凋落が明らかなものとなった。そして世間を震撼させた闇バイト。
今まで漠然と悪化しているもの、漠然とした不安が一気に明らかなものとなった、脚光を浴びた、そんな一年であったと思う。
そんな中で今まで考える必要がなかったもの、めんどくさいからと考えることを放棄していたことを考えなければならない一年だったのだと思う。
思考するというものは考えることと同義ではない、と私は考えている。考えるということは「認知すること」すなわち把握することでしかないと考えている。漠然とした不安があることを認知すること、漠然とした問題の存在を認知すること、それが考えるということだと思う。
思考するとは漠然とした物事に対する対抗手段を考えることだと思う。
そして、漠然とした物事をどうにかする方法を考えるためには漠然としたものを「言語化する」というプロセスがあるのではないか、と思う。
Mr.Childrenのhimawariという歌に
考えている風でいて
実はそんなに深く考えていやしないこと
思いを飲み込む美学と
自分を言いくるめて
実際はめんどくさいことから逃げるようにして
邪にただ生きている
という歌詞がある。
今まで私たちは考えている「ポーズ」をしていた。
自己主張しないことがいいことであるかのように振る舞い、
思考することがめんどくさいことを先送りにしてきた。
その結果が明確に現れたのが20224年なのかもしれない。
ここから思考する、「言語化」する習慣のあった人間とそうではない人間の間には大きな差ができてくるのだと思う。
今まで同じラインに立っていた同期が手の届かないところまでいってしまうのかもしれない。
だからこそ、今まで乗り遅れていた分を取り戻すかのように思考し続けなければならない。
前例にとらわれず、誰よりも考え抜き、自ら道を切り開かねばならない時代がやって来たのかもしれない。