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演劇授業は未来国語の夢を見るか
教科書の中の会話文が以前に比べて増えている。…私たち劇作家、会話文のプロから見ると、散文で伝えられることをわざわざ会話文にしているだけの教材がたくさんあります。…ものすごい1人がながぁく喋って、またながぁく喋って。おそらく問題作成者が会話文を舐めている。
先日、平田オリザさんが国語科研究発表会の講師として講演に来られました。
劇作家、演出家にとどまらない幅広い活躍をされている方、という認識でした。残念ながら三省堂の国語教科書が採用されている学校で働いたことがなかったのですが、平田オリザさんの作られた教材のことも交えつつ、お話ししてくださいました。その冒頭で上記の様におっしゃいました。
平田オリザさんは今、大学の学長をされているそうです。そこの大学入試の一例として紹介されたのが、「四国へ繋がる橋をどれか一本に絞らなければならないので、会議をして決めてほしい」というもの。時間内に、インターネットなどで情報を集めるのは自由で、パソコンが2台与えられるそうです。つまり、知識は原則重視されません。それぞれの橋を残したい立場で、集めた情報を使って、会議を進めます。自分の主張を通すことではなく、ディスカッションへの貢献度が得点になるそうです。うまく役割を果たせるか、与えられた役を演じることができるかを見るのだそうです。講演の中では「宇宙兄弟」の例を出されましたが、命を預けられる相手を選ぶときに求められるものは、グループワークの中で測られるというわけです。
さて、三省堂の教科書にある教材というのをざっくり説明すると…
朝の教室で、生徒たちが喋っているところに、先生がやってきます。先生は長野からの転校生を連れてきました。彼が出身地などを交えて自己紹介した後、趣味や呼び名などといったみんなの質問に彼が答えます。先生が去った後、クラスメイトが口々に彼に話しかける。
という内容です。
この教材を作られた平田オリザさん曰く、この授業のポイントは「今日はうそをついて良い」「うまくうそをついたらほめられる」と伝えて始めることだそうです。
学校生活は基本的に、正直であることを美徳とし、事あるごとにそれを求めます。わかりやすいところでは道徳。または、問題が起きたときに事情の説明をするときなど、正直に話すことが求められます。
しかし、現実社会で私たちは、うまくうそをつくことを求められることのなんと多いことか…。それは単純な自己弁護のうそに限らず、「話を盛る」と言われるような体験の再構成をも含みます。相手を傷つけず、かつ、周囲の信用も落とさない日常会話の綱渡り。現実社会では上手に嘘をつける人間の方が人気者になるのは事実なのです。学校で公に教えられることはありませんが、ウソをつくことは生きていく上で必須のスキルとも言えます。
その必須のスキルは、演劇によって学ぶことができます。しかし、日本には「演劇」という科目がありません。(演劇が科目に入っていないのは、OECD加盟国の中では3カ国だけだそうです。)教科書に入っていなければ、演劇を経験するチャンスが無いのが現状です。そこで、三省堂の教科書の教材の出番というわけです。
授業のハイライトは、教科書に載っている平田オリザさんが書いた戯曲、脚本を、生徒が書き換えるというもの。関西なんだから関西弁にする。転校生の出身地を変更する。その変更はドミノ倒しのように、他の箇所へと連鎖していく。それは整合性を保つために、必然性を持って書き換えられる。うまくウソをつくことが求められる。
教室という日常の舞台設定は、大人の想像以上に生徒にリアルな会話を求めます。「この人はこの場面でこんなこと言うはずがない」という意識が生まれたら、それは読解の授業であり、創作の授業でもある。しかしそれこそが、日常彼らがリアルタイムで求められている会話という必須技術を煮詰めていく高度な作業になっていくというわけです。
平田オリザさんは、この教材を授業するときに、先生たちに「できるだけ教えてほしくない」と言っておられました。教えすぎるとそれは教師の望むものへと誘導することになってしまうということです。その誘導はきっと教師の想像を超えるものを作らないでしょう。放っておけば、クラスの中に1班くらい、突飛な思いつきをするかもしれません。「転校生が火星から来たっていい。」でもその設定を採用した場合、火星で流行っている趣味を考える必要性が生じてくる。それは決して教科書に載っていない楽しい国語です。生徒が教師の想像を超える瞬間、過去の存在である大人たちの先、未来の国語があるのかもしれません。
演劇、会話文というものの有用性、重要さを改めて考えさせられました。なんとか教材を入手して、取り組むことができないかと考える今日この頃です。