【子供に愛情を注ぐこと=物を与えること、子供に嫌われることではない】 躾(しつけ)とは
・子供がいうことを聞いてくれない
子供、自分にも腹が立ってしまう時がある。
・子供が喜ぶことを追求して挫折する
わがままとして成長してしまう
・躾(しつけ)とは?
【結論:大事なのは子の目線になって向き合って、「こうだよ、ああだよ」と言いながら一つ一つ愛情を注ぐこと】
□ 厳しかった 私の『昭和の躾』
私は家は貧しかったのですが、躾に関しては厳しい親でした。
・食事中、肘をテーブルの上にのせない
・口を開けて音を立てて食事をしない
・ご飯を食べるときはテレビを消して黙って食べる
・ご飯が終わると『ご馳走様でした』と言って
食器は台所へ持っていく
・来客や人との接点の最初のコミュニケーションの挨拶は
自分がいかに機嫌の良し悪しがあろうと
ニコニコして笑顔でご挨拶をすること、相手に不快な気持ちを与えないこと
・何かものを頼まれたら『後で』と言わない
「いつもお天道様は待ってくれない」と教えられました。
頼まれたらすぐに『はい』と返事をしてすぐ動くんだよと
教えられました。
『実ほど頭の垂れる稲穂かな』
・自分が苦しい時にたった一杯の水でもご馳走になったら、
その御恩は一生涯、忘れてはいけない。
・どんなに偉くなっても人の下から行きなさい。
皆さんにお仕えさせていただくという気持ちを忘れてはなりません。
そんな教えを子供の頃に何度も教えてくださった母も
もう還暦を跨ぎ、いい年になってきました。
30代の時の母は家に大きなミシンを3台設置して
ご飯と洗濯物の家事以外の
時間はいつも
ラジオを流しながら、
朝から夜遅くまで淡々とミシンを踏んで
その機械音の中で私は育ちました。
・父親は精神病を三回患った。
大工職人として、一家の大黒柱として
働いていた父ですが、
20代の頃に一回
30代の半ばに一回
そして還暦を迎える前の59歳の時に一回
合わせて三度の躁鬱病にかかりました。
・私の”思春期”は父の精神病とともに駆け抜けた。
父は病気にかかると
暴言をあげたり、鬱状態で2週間部屋に引きこもったりしていた
たまに台所に出てくると、
たいそう辛気臭い表情を浮かべて何も喋らない時と
躁状態ともなると、
泣いたり笑ったり、怒ったり、ものを割ったり、壊したり
まさにわかりやすい症状が表に出ていました。
・母は一番大変な時に
母は10円ハゲができていました。
時に途方に暮れて泣いていることもありましたが、
必ず時間が経つと 家族に元気な表情を見せてくれていました。
そんな母の躾を受けた私は
母が苦しんでいる姿をこの目で見て
酷く絶望したのを覚えています。
・どんなに髪の毛が抜けても、ミシンを踏み続け、
家族はこれからも明るい
いつも口癖で、自分に言い聞かすように
そんな言葉を発していました。
私はそんな母の背中を見ながら、
少しずつ家事の手伝いをしたり、
時にはミシンの手伝いをしてお小遣いをもらったりして
過ごしました。
・3度目の父の病気再発の原因は 祖父の死から始まった
30代に病気をして、2年ほど療養して回復してから
父親は全うな大工職人として
仕事を続けた。
毎晩の晩酌だけが楽しみだと常に言葉にしていた。
母親はそんな父を見て
家族の状態が良くなっていることをとても喜んでいた。
もう20年近く病気にもなっていない。
多分この先も大丈夫だと思っていた。
・祖父の急死
私が夜勤明けから帰ってきて シャワーを浴びた後
台所でゆっくりしていたら
一本の電話が入った。
その日は父もお休みで家に二人いた。
父親は電話に出て、話を終えた瞬間
静かに受話器を置いて
「祖父が風呂場で亡くなってしまったかもしれない」
そう言って
身支度をして、実家へと車で向かった。
祖父は前日夜に風呂場でシャワーを浴びている時に息を引き取った。
朝まで冷たいシャワーが祖父を濡らしていた。
そんな最期を迎えた祖父の
葬式を滞りなく終えた。
葬式を終えて、ひと段落した頃
父は徐々に再び、感情失禁することが増えていった。
病気の再発を家族全員が懸念していたが、
その予想は的中し
父は再び、暴言、泣いたり笑ったり の日々が始まった。
私は34歳になっていた。
あまりにも母親にきつい言葉を連続していた父に
怒りを全て私の頬にぶつけて下さいと
頼んだら、次の瞬間、思い切りブチ殴られた。
警察を呼んだ
父は警察が来ても、自分の態度を崩さず、
強気でヤケになっていた。
父親は結局、警察署には行くことなく、家に残った。
それからもしばらくは
うつ状態と躁状態の繰り返しの日々が二年間続いた。
躁状態になると
お金もないのに、急にしたこともない釣竿を買ってきたり
2画面表示で最先端だと言いながら
一人で勝手にテレビを購入してきたりした。
車も購入契約を知らない間に結んでいた。
これは早めに気づいて状況を伝えて
キャンセルした。
また、母は時々台所で一人泣いていた。
それでも時間が経つと母親は立ち上がって
家事を済ませて、布団の準備をしていた。
私は母の躾が良いものだったか悪いものだったかは
一人の母親からしか躾を受けてこなかったので
わからないが、
たくさんの愛情を注いでもらってきたことが
どんなに歳をとっても
薄れない感謝の気持ちが宿っています。
私は小さい頃
よく母親にこれはなんで?
これはなんで?なのと聞いてくる子供だったそうです。
それは今でも変わらず、
これはなぜなんだろうと考えにふけることが多いです。
身を美しくとかいて 『躾』
私は少なくとも母親の大きな愛情を注がれて育つことができた人間になりました。
介護福祉士として従事する中でも
この感覚が心の つっかえ棒となって
いつも何かに守られている、支えられているという安心感のもとで
働くことができています。
小さい頃 わがままで
病院の日はロッテリアでハンバーガーをおねだりしていました。
誕生日には毎年好きなものを買ってもらっていました。
最近になってようやく
母の日に花やお寿司でちょっとした恩返しの行動を取ることができています。
愛情は 与えるものであり、与えられるものであるということ
そしてその愛情はいつまでも
人生で躓きそうになるたび
力が湧いてくるものとして
私はたくましく生きる土台を躾と母の人生から
得られることができました。
現代の日本のお母さんが忙しさとともに
子供への愛情を注げる時間も減ってきており
それがお互いのストレスとなって
爆発してしまうケースもよく耳にします。
これは女性だけに問題があるのではなく
父の存在の相互関係も関わる深い問題だと思っています。
父親の役目は尊敬される人物になるという役割を持っている
ということを先日雑誌で読みました。
家庭をたくましく支える日本の母の力と
尊敬される父親が存在する
家族というのは
どんなに時代が変わっても普遍的に機能する
大切な基盤だと思っています。
今は夫婦仲良く暮らしていることも
当たり前じゃないんだなということと
ここまで寛容な性格に育ててくれた躾を施してくれた
家族の存在に感謝しています。
きっとあなたの中にも
愛情の大切さに心がギュッと苦しくなったり
希望の感情があふれたり
することはあると思っています。
日本はまだまだ元気な国です。
立ち上がろうなんて鼓舞する必要までは感じませんが、
人として全うに生きようとする感覚は
大切にしていきたいものだと思う
今日この頃でした。
お読み頂きありがとうございました。