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4月2日 図書室の先生【今日のものがたり】

 僕には大事な約束があった。

 なのに、それすらも過ぎ去った時間のなかに置き去りにしていた。忘れたことにしても、誰からも責められることはない。これまでと同じように空虚な時間が生まれるだけだ。
 
 何となく横になって、目を閉じては開け、また閉じて開ける。暗い部屋の中でそれを繰り返しているうちに朝になる。うまく考えられない頭で、それでもこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないという思いだけはあって、僕は退職願いを出した。

 ただ過ぎていった時間ではなく、空虚だったと気づいたとき、僕は初めて後悔した。約束を果たせるのなら果たすべきだとどうしてすぐにそう思わなかったのだろう。
 僕は東京を出た。新幹線と在来線を乗り継いだところにある山穂(やまほ)という小さな村に向かった。あの日の約束を果たすために。

「てるてる先生、こんにちは」

 僕のいるカウンターごしにランドセルを背負い、帽子をかぶった女の子がいた。いつからいたのだろう。今来たばかりだろうか。
「こんにちは」
 僕がそう返すと女の子は「てるてる先生、ちゃんと寝てますか?」とカウンターに身を乗り出しながら僕の顔を見てきた。

 閉校した学校を改装し、住民の憩いの場として開放しているコミュニティスペースがある。その一角が小さな図書室になっていて、僕は今そこで働かせてもらっている。

 女の子は僕が山穂へ引っ越してきた日に同じバスに乗っていた。隣町の学校から帰ってきたところだったらしい。村には子供がほとんどいないのだそうだ。

 図書室勤務の人は「先生」と呼ばれるのが通例で、なので僕も先生と呼ばれているのだが、まだ慣れない。いつも誰のことだろうと思ってから、ああ自分のことかと思うので返事も遅れるときがある。

「ちゃんと寝てるよ」
「なら、いいけど」

 一度、正直に寝ていないと答えたらすごく心配されたので、それ以来寝てると答えるようにしている。
 女の子は椅子にランドセルを置くと棚にある本を眺め始めた。学校が終わると家には帰らず、この憩いの場に毎日のようにやってきている。
 最初は暗くなる前に家へ帰ったほうがいいのではと話したが、広い家にひとりは恐いから誰もいない家には帰りたくないそうだ。兄がいると聞いたが野球の練習で帰りが遅く、ここへは祖父母のどちらかが迎えにくる。

「てるてる先生、この本を読んでほしいな」
 
 女の子が絵本を手に僕のところへやってくる。表紙に大きく猫が描かれている。僕の知らない絵本だった。
「僕は読むの上手じゃないよ」
「そんなことない。先生の声、すてきだから聞きたい」

“素敵な声ね”

 不意に声が聞こえたような気がした。もう、聞くことはできない声が。

「どうしたの、先生?」
「なんでもないよ」
「そう? じゃあ、この本読んでほしいな。お願いします!」

 余所者であるはずの僕を受け入れてくれた山穂村の人たちと過ごすようになって一月。そうか、ひとつき……。
 時間の流れる早さはどこにいても同じはずなのに、ここはとてもゆっくり流れているような気がする。それがいいことなのかどうかはわからないけれど、僕はここで、君との約束を果たせていけたらと思っている。

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