8月4日 橋まで走って【今日のものがたり】
バスから降りて家へ帰ろうとしたとき、ほっそい道から妹の灯里(あかり)が「おにいちゃーん!」と叫びながらやってきた。恥ずかしいことするなよ。まぁ、バスにはほとんど人は乗ってなかったけど。
「お兄ちゃん、早く!」
「なんだよ。どこに行くんだ」
灯里はいきなりおれの腕をつかんで走り出した。おれが今日、何をしてきたかわかってるくせに。野球道具一式持ってるんだぞ。なのに、まだ走らせる気か。
「だって、さっきあの橋から虹が見えたんだよ」
「虹? 虹なんてすぐに消えるだろ」
「ひどい。そんなことないもん。きれいだったからまだ見えるもん」
わーかったよ。ついていくよ。でも、橋についたら現実を目の当たりにするだろうな。
灯里が言っている橋というのは、子どもの足でも10歩くらいで渡り終えられる本当に小さな山穂橋(やまほばし)のことだ。ということは小さな川があるのだけど、今ではもう水もほとんど流れていなくて、草がボーボーに生えている。
「あれー……虹がない……」
「虹っていうのはそういうもんだろ」
「えーお兄ちゃん、夢がないよ」
「うるさいな、夢ぐらいあるわ」
「え、え、あるの? どんな夢?」
「早く家に帰ってシャワー浴びたいっていう夢だよ」
「えーそれが夢なの? つまんない」
本当の夢なんて話せるかっての。でも、本当に汗だくだから今すぐシャワーを浴びたいのは本当のことだ。荷物も重いし。
「あーシロツメクサがたくさんある! ねぇお兄ちゃん、花かんむり作って、てるてる先生のとこに持って行こうよ」
「はぁ? なんで俺が作って持って行かなきゃいけないの?」
灯里はこのところ、図書室で働き始めた先生のことを“てるてる先生”と勝手に呼んで、その人の話をよくするようになった。お父さんでもないのに、馴れ馴れしいんじゃないかと俺は思っているんだけど、先生から苦情みたいなのはない。てか、先生もよくわからない人だからな。
逢坂(おうさか)さんが「彼はいい人だから大丈夫」とか言ってたけど、いい人ほどなんとかって言わなかったっけ?
「てるてる先生、元気かなー」
「ま、元気でしょ」
「そうだと、いいんだけど。なんか、てるてる先生ってここじゃなくて、なんか遠いどこかを見てる感じがして、元気なのかよくわからないんだよね」
俺は灯里の言葉のほうがよくわからなかった。ここじゃなくて遠いどこかを見てる? ほんとうによくわからない。
「でもでも、おいしいもの食べれば元気になるよね」
「それは灯里のことだろ」
「えーお兄ちゃんもそうでしょ」
そりゃそうだろ。おいしいもの食べたら元気になって野球の練習もめっちゃできようになるんだからな。