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3月6日 私の弟【今日のものがたり】

 同僚に野球好きがいて、時々観戦に誘われるので都合がつけば一緒に見に行っている。私は特に応援しているチームはないので、球場の雰囲気というものをなんだかんだで楽しんでいる。
 同僚は応援チームが勝っているとお酒の量が増える。負けてるときに増えるよりはいいのかなと思い、何も言わないでいる。同僚は観戦時に背番号のないレプリカユニフォームを着ているのだが、その理由が背番号ありだとその選手が特別になってしまうから、らしい。箱押しでいきたいそうだ。

 球場で試合を見ていると思い出すことがある。弟の景心(けいしん)のことだ。小学生の頃、球場で配られていたユニフォームを着て一緒に観戦したのが記憶の始まりで、景心との球場観戦は彼が中学3年生のときに途絶えた。理由は受験生だったからではなかった。

「姉さん、僕、どっちが勝つかわかるんだよね」

 ぽつりと、まるで独り言のような、聞き逃してしまいそうな声音だった。
「今、6回表で2-2の同点だけど、結果がわかるの?」
「わかる」
 景心は私の耳元で「5-2でネオゼフィルスが勝つんだ」とささやいた。わかると言った景心の言葉は本当だった。ネオゼフィルスが8回に3点を入れて勝ち越し、試合はそのまま終了した。
 ネオゼフィルスのホーム側で観戦していたこともあり、まわりのお客さんは皆、笑顔だった。けれど、私は少し緊張していた。景心は、ぼんやりとグラウンドを見つめていた。

 すごいね、本当に当たったじゃん。
 
 そう、明るく言えば良かったのかもしれない。でも、言えなかった。景心が初めて、救いを求めるようなまなざしで私を見てきたから。
「なんか、ヘンなのがいて……いや、なんでもない。姉さん、今言ったこと、忘れて」
 景心はそれから球場へは行かなくなった。

 しばらくの間は景心の行動が心配だった。でも、日々の生活の中で景心は笑っていたし、夜更かしもして、寝坊もして、試験もちゃんと受けて、妹の面倒もよく見てくれた。忘れてと景心が言ったのだから、忘れようと思った。結局、忘れたふりしかできなかったけど。

 いつかあの日に言った言葉の意味がわかるのだろうか。
 景心の就職先を調べてみたら、球場へも仕事へ行ったりするようだ。それを知らないということはないだろう。
 ならば、あの日のことは受け入れられたのか、それともこれからそれと向き合っていこうとしているのか。私にはわからないけれど、景心がいつまでも元気に過ごしてくれれば、姉としてはそれが一番嬉しい。

 そうしていつか、今度は妹の深景(みかげ)も一緒に、球場で観戦できたら良いなと思っている。

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