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日本画家 舘岡栗山について

  稲の花青より出でし青の穂に 
           舘岡栗山


祖父の俳句です(^o^)

もう40年以上前に亡くなりましたが
私の祖父は日本画家でした

41才の時、日本美術院…「院展」で「横山大観賞」を受け、
画家として生きてきました

もちろん、そこまでの苦労は多々だったらしいです。

雅号は「舘岡栗山」といいます
読み方は、「たておかりつざん」

秋田県五城目町高崎の出身です
(1897~1978年)
明治30年生まれで、享年は81歳です

なかなかおもしろくて粋な人だったようです
時代背景がまた良かったのだと思いますが

「番楽」

えー、私が生まれたころは70才ころで、
絵描きとして全盛期の祖父は私の記憶にはありません

ただ、初孫の私をあぐらを組んだ中に座らせて
絵筆を持っていたことはあったなあと

テレビの「ファミリーヒストリー」ではないのですが
もういちどおじいさん、
画家「舘岡栗山」を知りたいなと・・・
お盆も近いせいかそう思いました

何回かに分けて、祖父のことを書かせてもらいます!(^^)!

栗山の雅号は郷土にある美しい
秋田県五城目町の森山
森山は栗をおいたように見えたようです
それほど、栗山は故郷が好きだったんですね

地元五城目町教育委員会が以前
冊子にまとめて下さったものを抜粋します↓

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小さい頃から絵が好きで絵がうまかった栗山は
友達のたこ絵だけでなく、村の人びとからたのまれて

絵馬を描いたりしていた。

そのころから、栗山は絵かきになりたいと思っていた
絵を描くことが、本当に好きだった

栗山の家はおじいさんが、
村長をつとめるなどしていたが
豊かなくらしぶりとはいえなかった

15才で五城目小学校の代用教員になった
しかし「おれには、学校の先生はむかない。
自由に好きな絵をかきたい」
といって、一年ばかりでやめてしまった

それから師匠にもつかず、
ひとりで絵の勉強に励んだが
独学では上達するのは困難。

「東京さ行かせてけれ。
おれ、なんとしても絵かきになりたいです」
「気でも狂ったか。夢みたいなこと言ってないで、家を継いで田さ出てまじめに働け」
両親は少しも聞こうとしなかった

その後、町の病院の事務員になったが、
暇があると画帳をふところから出して
季節の草花や虫のようすを丁寧に
スケッチしていた
病院の医師があるとき
「ちゃんと師匠について勉強しないといけないよ」と
「君は見こみがある、努力したら、画家になれるだろう。応援してあげるよ」と

22才の時、
栗山は家出するように東京へ絵の修業に行った
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おー♬なるほどなるほど

おじいさん、やりたいことに突き進んだのですね(^O^)
すごい!今みたいに新幹線もスマホもないのに。
ご家族にとってはどうかわからないけど、なんか、羨ましいです‼️

この写真は晩年の栗山ですね
ちょっとこの角度、川端康成似かな(^◇^;)

修業時代については
また書きます(^_^)

稲の花青より出でし青の穂に
          舘岡栗山