続・平将門公ゆかりの寺社を訪ねる~茨城県南・県西、千葉県北西部
寺社所有の巨樹巨木も多いため、私は日常的にあちこちの寺社詣でをしております。その中で、平将門なる人物に対し、本拠地である茨城県南・県西では今なお尊崇されている印象を強く受け、世間でおそらく主流であろう「朝敵とか怨霊とか、いわば悪の側ばかりの人物像」に疑いを向けるようになったのです。
過去記事を書いて投稿し1年と数ヶ月が過ぎ、その間、更に他の将門公ゆかりの寺社に詣でて回っていました。
その成果というか、まとめというかです。
歴史学者でも郷土史家でもない一小市民の視点ですので、あしからずご了承のほど。
寿広山 西福寺
茨城県常総市新石下の西福寺。
こちらの寺院と将門公との関わりは、直接的なものとは言えないのでしょうけど、無関係とは言い切れないところがあるので挙げさせていただきます。
過去記事(【読書記録】『災害・崩壊・津波地名解 地名に込められた伝言』太宰 幸子 著|Motomi Kohakura)と重複する箇所がありますが、
こちら西福寺には将門公菩提供養之碑が立っており、案内板によると この石碑は鬼怒川右岸御子埋から新石下の妙見寺、さらに妙見寺の廃寺により現在の西福寺へ移ったとのこと。
この将門公菩提供養之碑には建長六年とあり、西暦1254年。鎌倉時代の人々が、数百年前に世を去った将門公の供養を行った、というのです。
さらに・・・時は流れて江戸時代の天保年間、某旗本がこの碑を持ち去ろうとしたが、「夜中炎を吐き止まず」恐れをなして立ち去った、とのこと。
えぇ怖ッ!と思うと、その一方で、この碑に縄を架けると病が癒えるといわれ、信仰の的になっている、とも。
石碑自体は、あくまで後世の人々が将門公を供養し立てたもの(とされていて)、石碑に不可思議事象を起こす力を与えているのは何者かと問われると、返答に窮してしまいます。とはいえ、これもまた或る意味当地における将門公の遺徳であり威徳なのだろうと思う次第なのです。
國王神社
平将門公を御祭神とする、國王神社(茨城県坂東市岩井)。
神社公式サイトに在る由緒が、読んでるうちに霞んでくるのですよ…涙が出ます本当に。
(以下は、神社公式サイトの由緒・歴史のページを参照しながら、私個人の視点で多少短くまとめ直したもの。補足説明として、神社の縁起書がまとめられたのは江戸時代とのことです)
父が朝敵として討たれ、奥州へ逃れて隠れ暮らし、三十二年。
人生五十年と謡って舞ったという信長の時代より何百年も前の話ですから、平均寿命もより短いのではないかと推測されます。三女が何歳のときに奥州へ逃れたのかは現状私には分かりかねますが、32年も過ぎてしまえば、その頃には自らの人生の終わりについて考えずにおれないほどの年齢だったのではないでしょうか。そのような時に悪夢を見て、「これは…」と幼い日を過ごした下総の地へと急ぎ戻ってきたのだろうと。そして何十年という時を経て、父の最期の状況を知るのです。その時の思い、いかばかりかと。
父の終焉の地で見付けた木で、父の像を彫ったという尼。一刀三礼とは一彫りごとに三回礼拝するという仏像を作るときの作法であって、高僧や高名な仏師が優れた仏像を作ったときの伝説にはたびたび付随してくる説明語です(少なくても私個人はそう思っている:爆)。
仏像を作るのと同じ作法で、亡き父の像を彫る。
ここに、娘が木像に込めた思い、さらには亡き父への思いが見えてくるようじゃないかと。
ちなみに、この木像はいつでも拝観できるわけではないようですが、写真はネットで見ることが出来ます(茨城県教育委員会ホームページ内「いばらきの文化財」など)。教委サイトの説明では「室町時代の作と考えられる」とあり、縁起の編纂も江戸時代なので、どこまでが真実なのかという向きにもなるんだろうと思います。
更に言うと、茨城県土浦市宍塚に如蔵尼が創建したと伝わる龍王山 般若寺がありますが、現地でいただいてきたパンフレットには如蔵尼について「平将門の次男・将氏の娘、安寿姫」と書いてあり…「如蔵尼は将門公の三女なのか孫娘なのか…いや、そもそも國王神社の如蔵尼と般若寺の如蔵尼は別人(おば・姪という関係ではあれど)なのか?」と、より分からなくなるというか・・・(般若寺では戦国時代に二度の焼き討ちに遭い、書物や寺宝が焼失したとのことで残念…ほんと文化財で恐いのは火災です)
ただ、以前から過去記事でも何度か熱弁してますけど、私のモットーは
所謂正史・公式記録にばかり囚われず、「これ全部は事実じゃないかもしれないけど、残されたのには何らかの必然と一片以上の真実が在る」であろう民間伝承にも価値と意義を見出す
なので(爆)、それはそれとして「いや、そこは違うんじゃないか」等とは取り敢えず挟まずに話を進めるようにしております。
これは或る意味、昨今話題になったマスコミとSNSの戦い、政治的報道的意図と民意との戦いの構図にも似ているのかもしれません(極言)。どこまでが真実かはともかく、大衆はそう信じていた、そう信じたかった――この点もまた重要事項ではなかろうか、と。
話を戻しますと(何事も無かったように…;)。
こちらの本殿は神社の建物には珍しい茅葺きで、御神体である将門公の木像(前述)と共に県の重要文化財となっているとのこと。社務所は閉まっていることのほうが多いようですが、御朱印や絵馬などは賽銭箱の近くに準備されており、代金は賽銭箱にというスタイルでした。
境内には市指定天然記念物・アラカシも。
参拝し、御朱印と由緒書をいただいてきました。御朱印には九曜紋と馬の印。うわぁ遠かったけど、ここまで来て良かった!という思いばかりでした(坂東市は茨城県内における「鉄道駅なし市町村」の一つであり、公共交通利用となるとアクセスは関鉄常総線・TXの守谷駅か東武アーバンパークラインの野田市駅からバスなので、「…遠い;」と思わざるをえないのです;)。
あと、美術館や喫茶店の来館者ノート・来店者ノートならば時々遭遇するので別段驚かないのですが、こちらには参拝者ノートがあり…参拝者ノートを置いている寺社は、そう多くはないんじゃないかなと。見てみると(見たんかい;)、将門公への尊崇の思いと平穏無事に生活できていることへの感謝の言葉を何人もが綴っていました。愛、すごい…。私も今後もう成田山新勝寺には参詣しないという決意を新たにしました(※成田山新勝寺は朝廷方が承平の乱鎮圧すなわち将門公を討つがために創設したといわれ、サイト『茨城見聞録』「守谷のお化け石」<※後述>の項にも、
”平将門公の崇敬者は成田山にお参りしないといわれます。”
と書かれています)。
明王山 知恩院 慈光寺
茨城県坂東市弓田に建つ、慈光寺。
過去記事(お寺の掲示板、その3|Motomi Kohakura)にも書いており、重複もありますがご容赦を。
北関東三十六不動尊霊場の35番札所で、歴史は古く、北関東三十六不動尊霊場公式サイトによれば創建は奈良時代と伝わっており、将門公ゆかりの寺でもあります。将門公は、この智恩院(※創建から鎌倉時代初期には、こう称していた)の不動明王を鬼門除けの本尊として、また厄除けの守り本尊として深く信仰していたと伝えられるそうです。
戦国時代末期に戦火に遭い、慈光寺は本尊の不動明王像と阿弥陀堂・阿弥陀如来像を残し焼失して不動明王は阿弥陀堂に安置されることとなり、以来不動尊を信仰すればその願いが阿弥陀如来にまで伝わり、とくに臨終に際しては苦しみもなく枯木が枯れるようにポックリと人生をおえることができるという信仰が広まり、いつしか「ポックリ不動様」と呼ばれるようになった、といい。明治に入り信者の増加につれて、さらにはポックリと諸願が成就するという信仰が着々広まっていったそうで。
由来というか経緯がかなり興味深い話でした。
境内には立派な阿弥陀堂と不動堂(その後再建されたのでしょう)の他にもイチョウやスギ、ケヤキ(たぶん…)などの巨木も多く、しかもそのスギの枝が横に張り出して絡み合うかのようなさまが筑波山の紫峰杉を思わせる姿で、そこでも目を見張りました。
阿弥陀堂と不動堂にお参りし、御朱印をいただきました。
「こちらもどうぞ」と、可愛らしいマスコットも…。
坂東市を訪ねて市内を歩いてみて、「路傍に石碑・石仏と巨木や草花」というのがかなり多いと感じました。更には、一見したくらいではその石碑・石仏が何物なのか良く分からないケースも(困)。これも当地の文化というか習俗なのでしょうか。。
将門大明神と岩井山 龍光院
千葉県柏市、手賀沼の、ほど近く。
将門大明神(将門神社)と岩井山 龍光院は、一つの境内に神社と寺院が並んで納まっているかのようで、不思議な感じがしました。神社の鳥居と寺の門が並び立っている。
将門神社は、将門公の三女・如蔵尼が当地に祠を立てて父の霊を弔ったのが始まりとされ、これは前述の國王神社(茨城県坂東市)にも共通する由緒譚です。
こちらの神社の基壇の部分には「放れ駒」が見受けられ、それは九曜紋と共に将門公が用いた紋とされている、とのこと。
私は学者でも研究家でも、さらには熱狂的ファン・マニアでもないので、所謂「どっちが先か・本物か」的な真贋論争よりも「坂東市岩井でも柏市岩井でも(岩井という地名が共通しているのにも何らかの縁を感じます…相当の距離はあるけれど)、民衆が長年尊崇し続けて廃れさすことなく現在に至る神社である」ということが大事なのだと思うのです。
↑若干それら専門職やファン・マニアをディスったつもり発言(爆)
思うに歴史という学問は、過去の事柄を研究するとなればタイムマシンは実現していない(ということになっている)ので現代人が実際にその目その耳で現場を確認することなど出来ず、その時代にその件を見聞きした人物が書き残したであろう記録を基に議論するしか無く、その記録を確かに「本物だ」と信用する前提無くしては進まないものではないか、と(もしや辛辣)。場合によっては文字記録以外の物品やそれが出た場所等が確かな証拠となることもあるけれど、全ての案件について適用は出来ないし。
正直、その「記録」には事実がありのままに記載されていることを、現代人が何をどうして立証できるものか、という・・・「こう書いて残しておいたほうが、我々にとっても後々の為にも、きっといい」的に、当時の一部の人々の意志で改ざん・捏造されたケースだって有り得るわけなのにな…「複数の記録に同じことが書いてあるから」も、もしかしたら組織的改ざん・捏造かもしれないじゃん、、と。
要するに史料の信ぴょう性については、古い時代のものほど現存する絶対数が少ないわけで、「100%事実である」と尚のこと断言しがたくなるだろうと。付け加えるなら、古いものだと現在までに何度も書写を経たものしか残っていない場合もあって、いつか・どこかの誰かが「うっかり」ではなく故意に書き換えて、結果原文と相違が生じている可能性もゼロではないでしょ、と。疑い出したらキリがない世界な気がします。
それでも「この記録は信じていいだろう」との下で議論している、いや、するしかないのが実情じゃないかと思うのです(さらに辛辣)。
寺子屋が広まり読み書きが出来る人口が増えたであろう江戸時代以降に関しては、現代とも年数が比較的近い上に、それなりに色んな地域の色んな立場の人の手になる記録が幾つも残っているはずなので、客観視しやすい≒信頼度も上がるとは思うのだけど…問題となるのは、もっと古い時代の話。。
私が歴史に対し冷めてしまったのは、実は所謂「歴史ブーム」だけが理由じゃなくて、過去の定説がこれまでに何件も覆ってきたのを見て「今迄自分が信じてたものって何だったのかな」と思ったのもあるし、更には自身が工学畑で「今この時に実際に目の前で起こっていて、この目で確かめうる」ものを見続けてきたからというのもある――と最近気付きました(爆)。
なので、今現在の私は公式記録よりは民間伝承の方に「これ全部は事実じゃないかもしれないけど、そう言い継がれて残されたのには何らかの必然と一片以上の真実が在る」と関心を寄せ、むしろそちらのほうを信頼する次第なのです。学問としては関わりのない部外者だからこそ許される自由ですよね(しみじみ)。
ところで、坂東市岩井とその周辺もでしたが、この柏市岩井の辺りにも石碑が多かったことが印象に残っています。将門大明神・龍光院の境内には庚申塔群があり、バス停からの道の途中にも点々と。
そのうちの一ヶ所の石碑を撮影したらば、スマホがフリーズし強制的に電源を落とさざるを得なくなり、写真も保存されませんでした(実話)。
何でもかんでも写真に撮って残すもんじゃないのかもと反省し、再度撮影を試みることはなく、その場を離れた私でした。。
守谷のお化け石
茨城県守谷市、関東鉄道常総線・南守谷駅から西南西の仲坪公民館(Google Mapsによると)。
いわゆる地区の集会所的なところと見受けられ、敷地内には小さな神社や石碑などがあるのですが、他にも柵と有刺鉄線に囲まれた異質な石碑が立っています。
これが、(サイト『茨城見聞録』によると)なんでも50年ほど前に「石に人の顔が映っている」とメディアで取り上げられ、一時は見物人が押し寄せたという「お化け石」なのだとか。
右から、大黒天の石像、十九夜講の石碑、そして「お化け石」。
この「お化け石」の話は昭和時代の出来事なようですけど、
見物人の中には石碑にお賽銭をあげる人が居て、お賽銭がたまった頃に盗まれて、でも盗んだ人が交通事故を起こして「これはあの石の祟りだろうから」と返してきてくれるよう頼まれた知人がお賽銭を届けに来た、とか。
そんなこんな大騒ぎになったけれども、人の噂も七十五日というか、訪ね来る人もめっきり減り。
誰かが石に落書きしたらば、以降顔は見えなくなった、とか…
何というか成り立ちや話の流れ、オチ(?)までも昔話や伝承の或る意味定型的なものを踏まえた現代版民話のような造りでもあるかな、と私には思えます。
真偽のほどは当事者にしか分からないところではあるのでしょうけど…木目が人の顔に見える、パレイドリア的なものから始まった、というのも否定は出来ないかもと。最初に「石に人の顔が」と言い出したのが小学生の女の子、というのも複数の意味で気になります(ポルターガイストが起こる家には多感な年齢の少年少女がいるケースが多く、それとの関係性を示唆する話を何かの本で読んだことがあるし<書名は忘れたけど;>、「そうなら面白くない?大人がびっくりするかもー」みたいな子供心的愉快犯な可能性も…ただ、これだと後で見に来た大人も「見えないじゃないか」と一蹴せず乗っかってる点も気になるけど)。
ただ、その辺を抜きにしても、石碑には不動明王が線刻されており、「成田山」の文字がはっきりと読み取れます。
この近くには、将門公が創建したとの縁起書(市指定文化財)がある海禅寺<※後述>が建っており・・・前述のごとく将門公と成田山新勝寺との関係を思うに、不穏な空気が漂うのではありますが。
私としては、「なんでここにそんなもん立てたん?他所で良かったんちゃう?」(なぜか関西弁?)みたいな思いばかりですけど。。
大雄山 海禅寺
前述のお化け石から、歩いて5分ほどのところ。
将門公が創建した(と縁起書にはある)海禅寺は、境内にモミジが多く、12月に訪ねたらば紅葉が鮮やかでした。
相馬氏数代の位牌があるといい、福島県南相馬市の伝統の祭・相馬野馬追の公式サイトにおいても将門公が相馬氏の遠祖とされることが書かれております。
縁起書そして境内の七騎塚(現地案内板には「将門および影武者七人の墓と称する供養塔」とあり)は江戸時代のものとされるそうですが、七騎塚の向かって一番右側には「平親王」と刻まれているのがハッキリと読めます。平安時代のものじゃないから偽物だーと言い切って終わり、には出来ない何かが在ると思えます。
将門公もまた、墓や首その他の塚と伝わるものが複数存在する人物です。それこそ「全部が本物だとしたら何人分になるの?」的な…
東京大手町の将門塚が有名すぎるほど有名ですが、私としては埼玉県幸手市神明内の浄誓寺の本堂裏手に立つ五輪塔「将門の首塚」の、戦死した将門公の首を愛馬が運んできて ここに埋葬したという伝説(※幸手市ホームページ内「守り伝えよう!みんなの文化財 」の項より)のほうに惹かれ、こちらこそ真実であってほしいと思っています。怨念で飛ぶより、こちらがいい。馬は賢い動物だそうで、乗馬体験にて子供や気弱な大人が馬にナメられた(※物理的に舐められたのではなく甘く見られた・見くびられたという意味ですよ)話はたびたび聞きます。製鉄と馬牧を進め東国を豊かに発展させようとしたという将門公なればこそ、愛馬は主を慕い忠誠心を抱いていただろうと…だから弔ってくれる所を求めて主の首級を運んできたのでは、と。反逆者の末路として晒されているのを奪って逃げて来た、くらいの話があってもいい(極言)・・・そういう風に思いたいのです。
…ところで、馬の名前まで記録に残るようになるのは、いつの頃からなのでしょうかね。『平家物語』の宇治川の先陣争いのくだりでは生食と磨墨という二頭の名馬が出てきまして、どちらも源頼朝が家臣に与えたものとあり、武士にとって良馬を持つことは重要かつ名誉ではあったのでしょうが、それを置いといても頼朝という人物は何かと馬と縁深いというのが私の印象です。中でも生食は、生けるものを生きながらにして食ってしまうのではないかというくらい(馬は草食だから、動物を取って食う、しかも生きたまま食らうなんてことは考えられないんだけども;)気が荒く獰猛なところから付いた名のようで…しかし書名は完全に忘却の彼方なのですが(スミマセン)頼朝が夜に池のほとりで駿馬と出会った的な、それこそ美しい画が浮かぶような話から「池月」と当てることもあるとの記述を見て「だいぶ違う…」と驚いた思い出が。
何はさておき、私にとっては将門公の愛馬の名が伝わっていないらしいことが、何だか残念なのです…。
話は戻り、海禅寺の境内墓地の奥には、守谷市指定天然記念物のスダジイがあります。
幹周4.9m、樹高約25m、樹齢約250年。
どこからどう撮影してもモミジの紅が写り込む感じでした。それはそれで、この季節ならではの美しい光景であったと。
また、海禅寺から徒歩10分ほどの小高いところに日枝神社があり、こちらも前述の各所と共にサイト『茨城VRツアー』「平将門ゆかりの地」に掲載されており。
この日枝神社がある場所は守谷市鈴塚といい、上掲『茨城VRツアー』には「承平天慶の乱で共に反乱を起こした平将門と藤原純友が、互いの戦勝祈願のため神社裏に大鈴を埋めたという伝説があります。」との記載。東国と西国…なかなか壮大な伝説では(正直な感想)。
神社の境内に石碑が複数並んで立っており、これにも既視感だったのでした(前述)。
附:守谷市一人歩き
お化け石・海禅寺・日枝神社を訪ねたのは同日です。
JR常磐線で取手駅に至り、関東鉄道常総線に乗り換え、南守谷駅で下車。お化け石・海禅寺・日枝神社と歩いて巡り、関東鉄道常総線・つくばエクスプレス(TX)の守谷駅へ出るまでは、1時間ほどの行程。
地図で守谷駅の近くに「祐天上人ゆかりのお寺」を見付け、せっかくここまで来たんだし寄っていこう…と思ったにも関わらず、気付けば駅に着いちゃってた自分(爆)。「でもまぁ、時間はあるから…」と、電車に乗るのは後にして、その雲天寺へと向かうことに。
祐天上人とは、浄土宗の七大本山の一・東京都港区芝の増上寺の第三十六世法主をつとめた僧侶であり、妖怪や怪談にそれなりに詳しい人は怪談噺『真景累ケ淵』で知られる累の霊を成仏させた僧として既知のはず(増上寺および雲天寺のホームページも参照)。東京都目黒区中目黒の祐天寺さらに地名としての目黒区祐天寺にも、その名が残ります<※中目黒の明顕山祐天寺は、祐天寺のホームページによると祐天上人の遷化の後、上人の遺命を受けた弟子の祐海上人が享保3(1718)年に建立した、とのことです>。更には、京極夏彦先生が宮部みゆき先生との対談の中で、現在の水子供養の基礎を作ったのが祐天上人と語っておられたこともあり(『対談集 妖怪大談義』)。だからこそ、この機会に訪ねていこうと思ったわけなのです。
話は戻り、八幡山 雲天寺。守谷駅から徒歩5分ほどでしょうか。あぁ数ヶ月前に守谷八坂神社に参拝した時、この前を素通りしてたあぁぁ…と気付いて大後悔時代に突入しましたけど(おおいに自爆)。
御堂に参拝し、掲示板や境内の水かけ地蔵、祐天桜を撮影。
水かけ地蔵の造形が愛らしくて…後方から水がピュッピュ出るのも可愛い。私も水をかけてお願いを、と思って「うぉ!氷、張っとる!」でした…12月の昼頃の出来事です…けっこう寒い日だったんだなと再認識(爆)。ひしゃくを取り、水をかけて無事願掛け出来ましたけど。
こちらの祐天桜は、東京都品川区上大崎の清岸寺にある祐天上人御手植えの桜と呼ばれる桜の古木から増やしたうちの1本が、平成30(2018)年に植えられたとのことです。(現地案内板と清岸寺に関するネット記事を参照)
そんな感じで写真を撮っていたら、ちょうど境内にやって来たお爺様に
「知ってる?この灯篭のココってハート形なんだよ」
と声を掛けられました。
おぉ、確かに石灯籠の模様が並んだハートの形。
昔の日本式に言うなら猪の目紋ですね☆(あっ知識がこぼれちゃいました)
見れば、お爺様だけでなく傍にはお婆様も。散歩の途中で雲天寺に立ち寄られたご夫婦のようでした。
こちらのお爺様が、かなり博識でいらっしゃって。守谷ほか茨城県南・県西にゆかりの小林一茶、柳田國男、さらに平将門公、親鸞聖人についてもお話をうかがい、自分が知るところはこちらからもお話ししました。
「守谷ってね、小林一茶と縁があって…」
と、一茶が利根川周辺の馬橋、流山、布川などと共に守谷も俳諧行脚で訪ねていたことや、
「民俗学者・柳田國男が子供の頃に見た『子返しの絵馬』があるのが利根町なんだよ」
と、柳田の民俗学者としての原点といわれる『間引き絵馬』の話も…
いや私も図書館の民俗学棚の本は相当数読んでいるので、柳田と間引き絵馬・子返し図との関係は知っていましたが、柳田がいつどこで見たのかまでは記憶していなかったのです(自爆)。子返し図・間引き絵馬には、生まれたばかりの嬰児を母親が押さえつけ「子を神に返す」という名の子殺しを行う酷いさまが描かれています。子宝と言うように子供は大切という思いと共に、食糧難や生活苦から子をもうけても養いきれず、口減らしに間引きし葬らねばならない現実もあったのだろうと。柳田少年も、それを確かに絵から読み取ったのだろうと思います。
「こうして寺社巡りしとるのか。だいぶあちこち行かれてる?…いい趣味だね」とも言っていただけまして…家族にはさっぱり理解も共感もされませんけど(爆)自分は好きでやっています。。
そして、
「守谷に明治神宮あるの知ってる?」
ええぇ、それは初耳です(実話)、と。
お婆様は「また、うちの人ったら…お喋りだし負けず嫌いなんだから」…やれやれ、な風で見守っている感じ。出しゃばるでも無関心でもなく、程よい距離感で旦那様に長年寄り添ってこられたのかなと感じられました。
・・・気付いてみれば、かれこれ境内で30分ほどお話ししていたのでした。
ご夫妻にお別れの挨拶をして境内を出て、守谷駅近くにあるという明治神宮を目指しました。
守谷駅に着いたあの時、「いいや。電車乗ろう」ってなってたら、この素敵なご夫妻との出会いはありませんでした。「守谷に明治神宮」も、知らないままだったろうと思います。
こういう時の御縁は大事にするものなのです!(爆)
Google Mapsで、すぐ見付けることが出来ました。
ううむ、なるほど駅近。
守谷市中央二丁目の、明治神宮。
当地の明治天皇を敬慕する人たちにより建てられたとのことで、東京にある明治神宮の遥拝所(遠く離れたところから拝む為に作られた場所)という位置づけらしいです。<「明治神宮 守谷」で検索すると、それこそナビタイムとかで守谷から東京都渋谷区代々木の明治神宮までのルートが出てきちゃって、知りたい情報な記事ってのは少ないのだけど…そんな少ないネット記事と現地案内板とからの分析です>
ちゃんと参拝してきましたよ。
近くには公民館(地区集会所的な)があり…他地域の事情はよく知らないけれども、とりあえず茨城県内には「地区集会所・神社・巨木がセット」という事例が多く、それこそ幾らでも挙げられるのです。その神社も、稲荷神社・八坂神社・鹿島神社・香取神社・八幡神社・熊野神社・天満神社…と様々。神社が多数派なのですが、お寺系というか仏尊を祀った小さな御堂というケースも中にはあります。こちら守谷の明治神宮の場合は、まだ若くて樹齢何百年という先輩方には及ばなくとも十分に立派な姿のイチョウの木がありました。
ワタシ的、TXの楽しみ方<守谷~つくば>
かくて、想定よりも遅くなったけれどもTXに乗って つくばへと向かうことに…午後につくば市内での用事を入れてたので(爆)。
個人的に、取手ー(関東鉄道常総線)ー守谷ー(TX)ーつくばという行程が好きなのです。
自分には東京方面へ出るならJR常磐線を使うほうが便が良いため、TXは南流山~つくば間しか利用経験が無いのですが(もっと爆)…特に守谷~つくば間がアトラクションばりに楽しいんです<※個人の感想です>。上り(秋葉原行)でなく下り(つくば行)のほうが個人的には断然お勧め<※個人の感想です※大事なことなので二度言いました>。つくば寄りの先頭車両、運転士さんの斜め後ろあたりに立って、運転手視点を楽しんだりもします(爆)。真後ろに立たれるとイヤだろうなあと思うので、斜め後ろ…(一応の配慮)
駅でいうと、
守谷ーみらい平ーみどりのー万博記念公園ー研究学園ーつくば
みらい平駅は、つくばみらい市にある駅。改札から階段・エスカレーターを上ってホームへ行くという駅も多い中、みらい平駅は半地下です。だいぶ前に鉄道大好き芸人@アメトーークで、この半地下駅・みらい平を通過する快速電車の魅力をプレゼンしてたのは確か石原良純さんだったかと記憶しているのですが、ほんとTX快速の疾走感は癖になります!何せ、快速は守谷を出たら終点つくばまでノンストップ(区間快速はですね茨城県内では各停と同じなのですよ;)。とりわけ守谷~万博記念公園間は線路に大きなカーブがなく直線に近いためか、ぶんぶん飛ばしてる実感があります(むろん安全運転遵守の上ですよ)。乗車するのも、快速が止まらない駅のホームで通過するのを見送るのも、どちらも良きです。
つくば市に入り、みどりの駅あたりで、ちょうど進行方向=運転士目線で真正面に筑波山がドーンと聳える感じです。ゆえに、みどりの駅前後では筑波山めがけて突進していくようなイメージです。いけー!とばせーー!!(心の中で:配慮)
万博記念公園駅は大阪だけじゃない!茨城にもあることを知ってほしい!科学万博つくば'85の跡地に作られた科学万博記念公園への最寄り駅とも。駅前には、岡本太郎作のオブジェ「未来を視る」もあり(つくば'85で博覧会会場内に設置され、博覧会終了後は会場跡地に展示されていたが、TX開通により万博記念公園駅の駅前広場に移設された、とのこと)。
万博記念公園駅を出てすぐ、進行方向左手に「住宅地の中に森」が見えます。これが島名の香取神社で、社殿の裏というか奥の大ケヤキが市指定天然記念物となっております。2年ほど前に訪ねたとき、現地案内板には二株とあったのですが、つい先日つくば市の指定文化財一覧PDFを見てみたら一株という記載でした(困)。社殿の裏手に限らず社地というか境内には木々が何本も立っていて、ツバキとの合体木であるケヤキも大きく立派であり、ケヤキが落葉し冬姿となってもツバキのほうが濃緑の艶やかな葉をまとっています。電車の中からも見えましたよ。
研究学園駅の手前で、線路はカーブを描きつつ90°近く曲がります。研究学園駅といえば、周辺にショッピングモールや大型店舗が多い印象があり<※個人の感想です>、つくば市役所の最寄り駅でもあります。市役所がマンホールカードの配布場所な為、私も下車したことが(苦笑)。2024年12月現在、つくば市のマンホールカードは2種。つくば市役所と、つくば駅前観光案内所が配布場所となっております(ただ、現状 下水道情報プラットフォームからのリンクではつくば市役所で配布の第2弾デザインの在庫状況が表示されないようなんだけど…;)。駅前観光案内所で配布のは『弱虫ペダル』デザインマンホールで…マンホールは7種あり、その1つがカードになっており。コラボマンホールはつくば市内のTX駅(4駅)周辺と市役所ロビー、筑波山ゲートパーク/サイクルパークつくばで見られるとのことですよ(私自身はサイクルパークがオープンする前、市役所ロビーに3枚展示されてた頃に見てきました)。『弱虫ペダル』コラボマンホールについては過去記事にて…ページの真ん中ほどに画像もあり(蓋女というほどじゃないけれど|Motomi Kohakura)。
研究学園駅を過ぎると、線路は地下へと入っていきます。つくば駅が地下なためです。両脇に点々と照明が光るトンネルの闇の中を走り抜けるさまに、スペース・マウンテンを思い出します<※個人の感想です>。
そうこうする間に、終点・つくば駅に到着。運転席すぐ後ろの乗降口から出ると、駅階段からは少し離れてますので…あしからず。
つくば駅に着いたら、時間の許すかぎり駅直結のショッピングセンター・トナリエつくばの店舗…ロフトとかロピアとかガチャコーナーとかを見歩くつもりだったんですけど…まあそれは後の機会でも良いかと、時間が来たらバスに乗って目的地へと向かったのでした。。
そんなわけで、守谷~つくば、快速なら12分ですけど、これだけ楽しめるのです(爆)。
え?私がただただ些細なことで感激できる「燃費のいい人間」だからですか??(何気にシニカル)
小さな幸せで感動できるほうが、毎日がハッピーだと思いますけどね・・・