見出し画像

初詣に思うこと

お寺で柏手かしわでを打って参拝してるおばはんが居たんですよ~
なぁーにぃー?やっちまったなぁ!
柏手は神社参拝時で、何ならそれにさえ疑問を呈する論もあるらしく。
お寺では叩かなくて良いんすよね…確か。

マツコ有吉のかりそめ天国でも話題にのぼったお賽銭問題も…
要は、両替にまた費用が掛かってしまうので少額硬貨の賽銭は止めて100円以上にしてほしい、というたぶん神社側の切実な事情らしいのだけど。
個人的には、これを浅くだけ読んだなら「神様は参拝者を選ぶんですか」論にも通じてしまうんじゃないかと……両替は寺社側と資本主義・貨幣経済の世間的な都合であって(極言)、「賽銭の金額がそのまま願いを聞いてもらえるかとか御利益の大きさになるのか、なるんなら貧乏人の願いはもう生涯聞いてもらえないってことか。世の中には神も仏もあったもんじゃないな」・・・って風にもなる(地)。
「1円に笑う者は1円に泣く」と言い、1円でも足りなければ買えないわけだけども、少額硬貨の零落を思わずにはおれないというか・・・寺社巡りを計画したら賽銭・御朱印用に小銭貯金にいそしんでいた自分、もしや「望まれぬ参詣者」だったのかしら、とか……で、結局「神様は参拝者を選ぶんですか」論に行き着いてしまうような(困)。
社務所・寺務所の内情を知らない部外者としては、賽銭は両替で赤にならない範囲なら少額硬貨でも我慢していただき、御守・御札・おみくじのほうは100円玉以上で納めるわけなので、そちらで勘弁いただきたいのですが…駄目ですか(涙目)。物価高の影響か、ここ数年で御守・御札や御朱印の値上げをした寺社もすごく多いのですよね…御守だと以前は500~600円だったのが800円に、とかいう感じ。2025年が明けた今現在でも「御朱印300円・御守500円」というところは実に少ない、というのが自分の印象(今年に入ってから某社寺に数年ぶりで詣でたところ、御朱印は上がっていたけど御守はそのままだった。でも、これはきっと少数派)。
しかしですね。世の中、上には上が、下には下が。ゲームコインや錆・変形硬貨を賽銭としてあげていく人が一人二人でなく居て「これは神様に失礼じゃありませんか」と投稿していた神社があり(具体的な名は挙げませんけど…どこも多かれ少なかれそうだと思うし)・・・買物で問題なく使える少額硬貨でさえ前述のように歓迎されない感じなのに、「貨幣として用を為さないもの、お金として通用しないもの」はもう論外も論外ですよね・・・お寺版の賽銭箱(たぶん)には「浄財」と書いてあることが多いように思います。辞書を見ると寺社や慈善事業に寄付するお金が浄財なのだそうですけど、文字通り解釈するなら「綺麗にされたお金」になろうかと。それは物理的に汚れていない綺麗なお金というだけでなく、まっとうな手段で得て、適切に保管・運用していたお金、ということじゃないかと。そんなお金を差し出すことに意義があるのでは、と。賽銭泥棒が悪なのは、神様仏様への不敬でもあるし参拝者への無礼でもあるから、ではないでしょうか。
だからもう、こういう輩にはお怒りになっても良いのです。むしろ怒ってくださいよ神様仏様……

「物は豊かになったが心は貧しくなった」と言われて久しい日本。
それが初詣をはじめとした寺社参拝における姿にも如実に反映されてしまっているように思えてなりません。
ランニングに短パン、サンダル、って出で立ちは真夏だったとしてもどうなのか。神様仏様に失礼じゃないのか。とりわけ女性がその恰好でイスラム圏さらにモスクにでも行こうものなら、どうなると思ってるのか。いや真剣に。神様仏様に対する失礼な態度ってのは、ある程度世界共通な気がします。
御朱印が「本日分はなくなりました」と言われて入手できなかった、正月なんだからもっと沢山用意しとかんかい、、と怒りの星1/5レビューを投稿する人が居たりね……夕方に行ったら、そういうこともあるでしょうよと。夕方に着いちゃった自分の至らなさを棚に上げて…遠方からの参詣だからと、そこを強調して偉ぶってどうするのかと(酷評)。遠方なればこそ早朝から寄り道なしで直で参るとか、何が何でも欲しいんだったら前泊するくらいの覚悟があればいいんであって、それが出来ないんなら今の自分にとって「本当に必要なもの」じゃない、ってことでしょうよ、、と(辛辣)。言うても地方の中小神社ですよ、なおさら工場的に大量生産してる訳じゃないでしょうよ、と(ちなみに、実際に自分でいただいてきたから分かったのですが、その神社の御朱印は基本書置ながら全印刷ではなく、神社名は手書きだし印も後押し。大量生産は難しいよなと)。確かに自分自身も某地の某神社で「この時期、参拝者が多く来るのは分かってたはずだろうよ。どうして在庫切れ期間が生じてしまう程度の準備しか出来んの?」と思った経験はありますよ(爆)。しかもそれ、夕方じゃなくて昼前、午前に詣でての話ですよ(実話)。でも、「あぁ、そうですか。ならいいです」と素直に帰ったし、酷評レビューも書かなかったですよ。御朱印・御守等と工業的に生産される諸々の商品がイコールだと思ってはいけないだろうと(きっぱり)。それもこれも巡り合わせなんだ、縁が無かった、と思って落とすしかないでしょ、、と。
物価高もあって心の貧しさが更に加速というか、現世利益に走る傾向はますます顕著になり、開運パワースポットに欲とか厄にまみれた人が押し寄せるものだから、パワーが落ちても止む無しというか、「厄落としに行ったはずが他人の厄を余計に背負いこんできてしまった」みたいな感じにもなりかねない気はしてきます(酷評)。

前述の かりそめ天国でのマツコさんの言葉「神様ってどこに居るんだろう」というのにも考えさせられます。
「そもそも神様って居るの?」って話にもなりますよね・・・
自分としては「居るかもしれないし、居ないかもしれない。どちらか一方に断定する必要もない」と…それが1%のニュートラル。。
宗教者でも何でもない一個人の考えとしては、神も仏も人間が一度きりの人生をより良く正しく・悩み少なく生きる為の方策的な存在でもあって、「神様仏様がどこかで見てるから、いけないことはしない方がいい」というものだったんじゃないかと・・・でも今の世の中だと「神も仏も、祟りも罰も、そんなもんありゃしない」という人も多いんだろうなぁと…だから「どうせバレんだろ」的に悪いことをするわけですよね、残念ながら(やっぱり酷評)…いやいや、もっと「バレても大した罪にも問われんのだろ。どうせ」というのもあるんだろうと(嘆)。

まとめると、寺社に対してもパワスポに関しても、実際にオフラインで偉い人に相対するような態度、「お参りさせていただく」という謙虚で誠実な気持ちがあれば、きっと上掲のような諸々の問題は起こらないはずで。
それこそ、かりそめ天国での話じゃないけども、「目の前に見える形で神様が立ってたなら、例えばそこで錆びサビの5円玉1枚だけ投げて『願いを叶えてくれ!あれも、これも…!』なんて言えるか?」ってことにもなるかと。・・・いや、それでも言っちゃうのかなあ、今時の人たちは(諦)。
「自分さえ良ければいい」という間違った個人主義、そして「神も仏もあったもんじゃない」的な不信心、恥を恥と思わない羞恥心の低下もまた、世知辛さを増大させているように思えます。ほんと「日本=『恥の文化』」と言われた時代は遠くなったなと…電車バスの中で人目をはばからず化粧し、文字通り『化ける』とこ全部衆目に晒してる女性客を見るたび思う(地)。

お化けと同じというか、神様も仏様も必要以上に畏れるのではなく、かといって盲信し自身を雁字搦がんじがらめにし或いは自身の生活の全てを捧げ犠牲にするでもなく(これはほんと注意していただきたい)、「居るのかな、居ないのかな。会えることがあったらどうしような。その時は喜んでいいのかな」くらいに思って日々正直に暮らすのが良いのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!