すべての格差の根源にあるのはセレンディピティ格差説
セレンディピティとは
セレンディピティ(Serendipity)は、「偶然の出会いや産物」とか「幸運な偶然を手に入れる力」などを意味する言葉として、それがビジネス界隈では「チャンスを手繰り寄せてモノにする主体的な力」のように、スピリチュアル界隈では「幸福の引き寄せ力」のように、あるいはどちらも本質的には同じことだよ、というように、認知をされています。
ただ、どの捉え方だとしても「成功あるいは幸福のための思考のツール」みたいなカテゴリーでの解釈になってしまっており、これにはなんか違和感を持ってしまいます。
そもそもセレンディピティってどんな状態?私たちにも起こったことがある?
子供の頃を思い起こせば、誰しも毎日が偶然の出会いに溢れていたはず。新しい昆虫を発見したとき、宝石みたいな石を見つけたとき、同級生の意外な特技や性格を知って驚いたとき、祖母の家にいったら近所のおばちゃんがアイスをくれたとき。
BUMP OF CHICKENの『魔法の料理 〜君から君へ〜』という曲があります。
子供にとって、それはラッキーかアンラッキーか、あるいはその両方が混ざっててよくわからないような感覚。それが大人になるに連れて、すなわち人生の学習の中で、その裏にあった相手の思いや、それを無意識に理解していた自分、それが現在の自分の価値観に何らかの影響を与えていたことを、理解していく。
一見、心が洗われる人生賛美の歌のようなんですが、角度を変えて読み解くと、子供の頃にこのような機会にどれだけ出会うことができたか、その頻度や広さが、その後の人生の拡がりを決めてしまう、と言っているような悪魔的解釈もできてしまいませんか?
例えば、親に叱られることがなかった人には、または晩御飯を家族で一緒に食べることがなかった人には、「叱られた後の晩御飯」の「言語化できないあの不思議な感覚」というものがまったくわからない、ということになります。
コロナ社会の教育とセレンディピティ格差
コロナは良くも悪くも、私たちが見ようとしていなかった課題感を、顕わにしてしまいました。その一つが教育です。
先生がオンラインでちゃんと授業できなかったり、子供同士のコミュニケーションが減ってしまったりといろいろ大変だったわけですが、これらの課題感は要するに「学校がセレンディピティ機会を提供することがうまくできなくなった」という話に集約できます。
そういうのをうまくやってのけるような学校は結局お金があったり経営上手な学校な訳で、コロナ社会はこれまでよりもセレンディピティ格差を拡げたことは間違いないでしょう。
どの程度意識的か無意識的かはわかりませんが、親も先生も、子供にセレンディピティの機会を与えてあげたいと思っているのだと思います。だから、「ゲームばかりしてないで外で遊びなさい」とか「英語を学ばせて海外に留学でもさせようかしら」とか思ってしまう訳ですね。
ただ、土の匂いも、友達との会話も、海外の文化に触れることも、セレンディピティを拡げるための手段の一つに過ぎないということにお気づきでしょうか?あくまでも効率的な手段というだけであり、それは目的ではないのです。別に家に籠っていることが悪いとは限らない訳です。デジタルも進化しており、セレンディピティを得ることは十分可能です。しかし残念なことに、そのデジタルを使いこなす力(=デジタルリテラシー)も、その背景にあるものはセレンディピティ格差だったりするのですが。。
デジタルリテラシーとセレンディピティ格差
デジタル機器をうまく使いこなせるかどうかといったリテラシー的な側面も格差の要素として語られますが、実はこれも突き詰めていくとセレンディピティが関係しています。
どれだけ便利なスマホやPCを与えられていても、検索する内容や、流れてくるショート動画は、その子たちの初期的な知識や興味の幅という制約条件を有しています。
ジャンクフードコンテンツは、「思考停止」という人間の脳が本能的に喜ぶ処理をさせてくれます。これにどっぷり浸かると、考えるという作業はどんどん苦痛になっていく、そしてAIが「これがお好きなのだったらこんなジャンクフードもいかがですか?」とどんどんオススメしてくるので、飽きることはない。
セレンディピティは、既存のインターネットの仕組みだと生じにくいとされています。例えば買い物がいい例で、インターネットショッピングだと目的買いになりやすいです。でも実際に街に買い物に行ったときはどうでしょう。歩く人たち、天候、ふと気になるカフェやショップ、店員さんとの会話、そういったセレンディピティが溢れているがために、いざ家に帰ってみたら当初の予定とは全然違うものを買って帰ってきたということがあったりするものですよね。(私の上司が、ブックオフに行くと奥さんに言って出かけて、マンションを買って帰ってきてめちゃくちゃ怒られたという逸話がありますが、これも彼が何か外出先でセレンディピティを得たのでしょう。)
で、何が言いたいかというと、子供の頃に、友達から知らない趣味の話を聞いたり、親が勉強の質問に対してちょっと違った視点の答えを教えてくれたり、海外旅行に連れて行ってもらったりした子は、その時期に蓄積したセレンディピティをもって、デジタルにそれらをインストールし、新たな世界を拡げていくことができます。しかしその蓄積量が少ない子が、その蓄積量のままでデジタルに触れると、その限定的な世界の中でオススメされる、更に限定的な世界にどんどん浸ってしまい、抜け出せなくなるという構図です。
デジタルとはあくまでツールであり、自分自身でしかない訳です。それをどの程度広い世界として使いこなせるかは、セレンディピティにかかっているということです。
セレンディピティ格差を塞き止めるには
これで終わってしまうと元も子もないので、解決法を考えてみます。
一番いいのは子供であれば親がこれを理解すること、もう大人な方であれば本人がこれを理解すること、つまり理解することがはじまりでしょう。理解すれば、手段は生まれます。例えばいつも見ているYouTubeをオススメからサーチするのではなく、まったく違うキーワードを入れてみたり、人気順ではなく新着順にしてみたり。そのネタすら浮かばないのであれば、デジタルブックではなく本屋に行っていつも立ち寄らないコーナーをまわってみたり。バーに行ってみたり。海外に行ってみたり。いくらでも世界にセレンディピティは溢れています。
個人の能動性に依拠しない方法としては、インターネットのサービサーが偶然の要素を取り込むことしかないでしょうね。次の時代にもしメタバースのようなものが席巻するのだとしたら、そういうメタバースになるでしょう。本当に街を歩くかのように、本当に海外の路地に立ち寄ると現地の会話が聞こえてくる(さらに自動通訳される!)かのように、ふらっと立ち寄ったカフェで、リアルでは出会えない人と出会えてしまうかのように。そうなればコミュニティ時代、真なる、風の時代ですね。
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