【ふたりの夫】アキとわたし

「ステージ近いですね」

わたしに向けられたその言葉を聞きとれず「えっ?」と聞き返すと、アキはもう一度「ステージ、近いですね」と繰り返した。らしい。

アキの記憶には鮮明に残っているというそのやりとりを、残念なことにわたしはあまり覚えていない。
その場面を誰かが録画していてくれたらよかったのに、と思うけれど、そんなことはあり得ないので、わたしはアキに何度もせがんで思い出話をしてもらう。

わたしとアキには、観劇という共通の趣味がある。
あるときアキが“開演時間までの暇つぶし”に、たまたま隣に座っていた“ひとりで来ているだろう女性”に声をかけ、それがわたしだった。
その日わたしたちが座っていたのは、ステージまでの距離が近いいわゆる“良席”と呼ばれるような席で、嬉しさと興奮を抑えられずについ声をかけてしまったそうだ。

「えっ?」とアキの方を向いたわたしを見て、アキは「かわいい」と思い「ほとんどひとめぼれだった」という。
フユと同様、たまたま好みの顔だったパターンだけれど、フユのひとめぼれエピソードよりもアキのひとめぼれエピソードを聞くほうがわたしは愉しい。
それがなぜだかわからないけれど、その話をアキから初めて聞いたとき「なんだかドラマチックだ」と思ったのだ。
わたしが覚えていないから、というのも理由のひとつなのかもしれない。
ともかくそうして、わたしたちは出逢った。

その後何度か同じ劇場で顔を合わせることがあり、タイミングが合えば立ち話をしたり、ちょうどわたしが誕生日だったときには可愛らしい箱に入ったおいしい焼き菓子をプレゼントしてくれたりもした。

そのプレゼントに特別な意味がこめられていたなんて、当時のわたしはまったく気づいておらず、なんていい人なんだろう(おまけにプレゼントのセンスも素敵)と感激するばかりだった。
実際のところは、特別な意味を悟られないように、恐縮させないように、それでいて喜ばれるように、と、慎重に選ばれたプレゼントだったのだけれど。
実にアキらしい。今となってはそう思う。

あるとき終演後に、アキを含む観劇仲間数人で近くのファミリーレストランへ寄り、公演の感想会を兼ねて夕食をともにした。

アキはとても聞き上手で、お喋りなわたしの話を絶妙な相槌を入れつつ聞いてくれた。少し斜めにうつむいて、やさしく愉しげに笑いながら。
落ち着いた話し方はわたしより歳下だとは思えないほどだったので、「それは緊張していたからだよ」と打ち明けられたときには笑ってしまった。

食事を終えて「そろそろ帰ろうか」と席を立ち、ちんたら上着や大荷物(鞄のほかにパンフレットやらグッズやら色々)を手にとるわたしや仲間たちをよそに、荷物の少ないアキはささっとレジへ向かい会計を済ませていた。

出遅れた私たちが財布を手に、各々の代金を払おうとすると「いいから、今日は奢らせて」と断られた。
「そういうわけにはいかないよ」とふたたびお金を渡そうとしたけれど「ちょうどボーナスが入ったんだけど、ほかにたいした使いみちもないから」と受け取ってもらえず、結局「じゃあ次の機会にはごちそうさせてね」ということで落ち着いた。

財布を鞄に仕舞いながら、わたしは自分がどきどきしていることに気づいた。
フユにチョコレートをもらったときと同じ感覚。

ーーのちにその話を聞いたアキから「もう誰からも食べもの貰っちゃだめだよ」と冗談半分(本気半分?)に言われ、食べものを貰ったりご馳走されたりしたら誰に対してもどきどきするっていうわけじゃないんだけどなぁ、と思いながらも「わかった」と頷いた。ーー

そう、誰でもいいわけではない。むしろ引いてしまったり、場合によっては嫌悪感を抱くときすらある。
ただ“気づく”のだ。その人から何かを貰うときに、自分がどれだけ心を許しているか、嬉しいのかを。
そしてわたしの場合、それが“たべもの”だと特に顕著になるらしい。なぜだかわからないけれど。

何事もなかったように皆と談笑するアキを見ながら、こんなにどきどきするなんて変だ、とわたしは動揺した。
だって、アキは……。

わたしの視線に気づいて、アキが微笑む。
大きな道路沿いだったので車が何台も風を起こして通り過ぎ、肩まで伸びたアキの髪が揺れていた。そして多分、わたしの髪も。

「同じ方向の電車だよね?途中まで一緒に帰ろう」
自分を落ち着かせるように、出来るだけ何でもないふうを装ってわたしはアキに声をかけた。

帰りの電車の中でわたしたちは、公演の感想会の続きをした。とても素晴らしい舞台だったので、いくら話しても尽きることなく言葉が出てきた。

わたしが乗り換える駅まであと2駅というところで、夫であるフユからLINEが届いた。
『3号車だよね?』
『そうだよ 1番前のドアの近くにいる』
『わかった』
仕事帰りのフユとちょうどタイミングが合いそうだったので、乗り換えるひとつ前の駅で合流するという約束を事前にしていたのだった。

約束の駅に着く直前、ふーっと息を吐いてから、わたしはアキに告げた。
「この駅で夫が乗ってくるの。紹介するね」
自分の胸がチクリと痛んだことに気づかないふりをして、窓の向こうに見えたフユに「ここだよ」と手を振った。

「こちらがアキさん。前に話したよね?同じ方向だから一緒に帰ってきたの。今日の夕飯ね、アキさんにご馳走になっちゃったんだ」
早口でひと通り説明すると、フユは「ご馳走になったの?」とわたしに聞いたあとアキのほうを向き「ありがとうございます。コハクがいつもお世話になってます」というようなことを言っていたような気がするけれど、はっきりとは覚えていない。アキがどんな返事をしていたのかも。
ただなんとなく、アキの顔をきちんと見られなかったのは覚えている。

わたしが結婚していることをアキはそれまで知らなかったので、少なからずアキは驚いているだろうとは思ったけれど、こんなふうにわたしが苦しい気持ちになるのは想定外だった。
ゆっくり縮まったアキとの距離が、一気に遠く離れたような気がしていた。無論それは一方的なわたしの感覚だと、理解していたけれど。

乗り換え駅に降り立ってアキを見送ると、わたしは頭も体もくたくたになっていた。歩く足がひどく重くて、何度も躓いてはそのたびに「大丈夫?」とフユに心配された。

「アキさんのこと、どう思った?」
唐突なわたしの質問にフユは「どうって……」と少し戸惑った様子だった。
「うーん、ボーイッシュな感じの人だね」
「男のひとみたいに見えた?」
「いや、それは思わなかったけど、服装とか雰囲気がボーイッシュだなって」
「そっか……」小さく呟いて、わたしは黙った。

やっぱり、どきどきしたのは錯覚かもしれない。
わたしは恋愛対象としては異性しか好きになったことがなくて、アキは同性だから。
ボーイッシュな服装をしていても、メイクが薄くても、立ち振る舞いが男性っぽくても、やっぱり女のひとだから。

だけど、それならどうして、こんなに胸が苦しくなるんだろう。

 

あの頃のわたしは、ごくごく小さな世界しか知らず、にも関わらずいろんなことを知っているような気になっていた。
自分自身のことも、すっかり知り尽くしているつもりでいた。

同時に好きになる人数は必ずしもひとりだとは限らないというマイノリティさを自覚しながら、その対象は異性だけだと勝手に決めつけていた。
好きになってみなければ何もわからないということを、わかっていたはずなのに。

アキの性別については、今もよくわからない。
男性的な外見のほうが「しっくりくる」らしく、考え方や行動もどちらかといえば男性的だけれど「性自認は女性」で「手術して男性になりたいというわけではない」そうだ。
「いろいろちぐはぐな気がする」とアキは言う。

アキが男性でも女性でも、どちらでもなくとも、わたしはかまわない。
“アキだから”好きになったわけで、結局のところ性別は関係なかった。
フユに関してもそうなんだと思う。たまたまフユの性別が男性だったというだけで、もしフユが女性でも、性別不明でも、わたしは間違いなくフユを好きになっただろう。

ただ、アキが生物学上女性であることにより、今の3人の暮らしが成立しているであろうことは3人ともわかっている。
そうでなければ、事態はもっと複雑化していただろう。
だけどそんな「もしも」を考えても意味がない。
今ある事実がすべてなのだから。

批難する人もおそらくいるのだろうけれど、それもわたしたちには関係のないことだ。
その人の感情はその人のものだし、わたしたちの生き方はわたしたちのもの。

アキと出逢って、わたしの世界はぐんと広がった。
“類は友をよぶ”なのか、セクシャルマイノリティの友人が自然と増えた。(そういう人たちが集まる場に行ったわけではなく、自然な出逢いのなかで)

かつてのわたしが気づかなかっただけで、世の中には(思っているよりずっと身近に)多種多様な人々や生き方があふれていて、もはや“ふつう”が何なのか、そもそもそんなものが本当に存在するのかもあやしい。

わたしがわたしらしく居られるきっかけをくれたのは、間違いなくアキだ。
恥ずかしさを放り投げて表現するけれど、その出逢いはまるで神さまからのギフトのようだと、思わずにはいられない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?