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春、来たれり。

もうすぐ嵐がやって来る。

船の住民は船内に戻れとアナウンスが何度も流れているが、俺は船首の一番先、舳先へ行くためにゆっくりと甲板を歩いていた。

風が強く吹いては止み、吹いては止みを繰り返して船の周りに黒い雲を連れてきている。

時が来ればこの船は黒い雲に覆われて嵐の中を何日も滞在するだろう。

そしてその後、雲のない青空を進んでいくことになる。

春の風と共に。

嵐が来なければ春は来ない、というわけだ。

船首の先端の舳先へ飛び乗ろうとした時、後ろから危ないわよと声をかけられた。

振り向くとあの女が髪を押さえながら俺に近づいてくるところだった。

アナウンス、聞こえてないわけじゃないでしょ?

俺はこの船の住民じゃねえから船内に戻る必要はねえよ

そんな屁理屈言ってないで戻りましょうよ、彼も心配しているし……

あいつが心配してるのは俺のことじゃなくて、この船が海に落っこちることだろうよ

そんなことないわ、彼はあなたのことを心配しているわよ

たった二週間前に会ったばかりのこの女に、俺とあいつの何がわかるというのだろう。

言い返すのも面倒なので無視して舳先に飛び乗った。

ちょっと危ないってば……!!

気にせず先端へと歩くが、後ろからギャーギャーと喚く声が飛んできて煩わしい。

仕方ないから途中で振り向いて声を出す。

俺は船から船を歩く旅人だ!

嵐も含めて、これくらいのことはどうってことない!

それを聞いてもあの女は納得していないらしく、まだ何か叫んでいる。

風の匂いが変わった。

もうすぐ本格的に嵐が来るだろう。

俺はともかくとして、この船の住民でかつあいつの彼女であるこの女は船内に戻さなくてはならない。

あいつから友人を……いや、あいつの周りにいる人間を奪うのは俺の役目ではない。

おい、あんた!

早く船内に戻れ、嵐が来ちまう!

旅人じゃないあんたは嵐が来たら吹き飛んじまうぞ、わかったらさっさと戻れ!

戻ってあいつの側にいろ!

でも……!!

風が強くなって雲が増えてきている。

俺がもう一度船内に戻るよう口を開きかけた時だった。

あいつがよろよろとこちらへ向かって歩いて来るではないか。

頼りなさげな顔、今にも吹き飛ばされそうなひょろい体。

こちらへ着実に近づきながら、あいつは叫ぶ。

そいつは船内には戻らない、説得するだけ無駄なんだ!

僕達だけで戻ろう、早く!

俺への言葉はなく、あの女の腕を掴んで船内へと戻ろうと向きを変えて歩き出す。

その様子を見て俺は安心して軽く息を吐き、さっきのあいつのように向きを変えて歩く。

三歩目を踏み出そうとした時、あいつの声がした。

春の嵐、相変わらず好きなんだね……あの時みたいに飛ばされるなよ、旅人さん!

あんな昔のことをあいつがまだ覚えているとは驚きだったが、次に自分の口から出た言葉にも驚いた。

そんなに心配なら一緒に来るかい、世界一の飛空艇技師さん?

恐らくあいつもそうだっただろうから、俺も振り返らずにそう言った。

言葉は帰ってこないが、互いに言わんとするところは伝わっているだろう。

不思議と口が緩んでいることに気が付く。

誰に見られているわけでもないというのに口元を左手で隠す。

舳先に到着して全身で風を感じ取る。

春の匂いが鼻をかすめる。

飛空艇の舳先で嵐がやって来るのを待つ。

嵐が来たら風を捕まえなければならない。

風を捕まえるまで嵐は去らないからだ。

これは世界の一部の人間にしか知られていない旅人の役割だ。

旅人が春を、夏を、秋を、冬を連れて来る。

旅人がいなければ季節が廻らない。

だから旅人は遥か昔から世界に存在する、唯一の職業だ。

危険なことは沢山あるし、命を落とす可能性は一般人よりも高い。

それでも誰かが旅人にならなければならないのだ。

素質があるなら尚のこと、ってな

声に出すと同時に左手を口元から離して、真っ直ぐに前を見つめる。


今までで一番酷い春の嵐が目の前に広がっていた。

腕が鳴り、鼓動が早くなるのを感じつつ、風を捕まえるのに何日かかるか計算する。

三日以内に捕まえて春を連れてきたら、あいつに美味い飯でも御馳走してもらおうと考える。


両手を広げる。


さあ、風を捕まえようか。


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