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CRYAMYがいなくなって 02

10.11、CRYAMYからお知らせが発表された。どうやら日比谷野音の映像にメッセージを贈れるらしい。あくまで彼らの音楽は「CRYAMYとわたし」なのだ。ありがたい。

この文章を送るかはともかく、折角だから最近のことを書いてみる。(前回のnoteではただ漠然とした暗い気持ちを書いてしまったが、最近はやっと少しずつ変化が生まれてきたので、それをどこかに文字にして残しておきたいというのが本音である。)

もうそろそろ聞き飽きて耳にうるさいことだろうが、もう一度だけ書かせて欲しい。
カワノの脱退は、私の人生において到底筆舌に尽くせないほど絶大な出来事であった。

大袈裟だと笑われるだろうが、私の人生はCRYAMYと出会ってから始まったのだ。それまで”当たり前”に過ごしていた日々に、激震が走ったのだ。私の人格はCRYAMYで形成したのだとすら、なんの疑いもなく言えてしまう。(それは決してポジディブな事ではない事は重々承知だが、どうしようもなかったのだ、、)
どうせどんな言葉にしてもこの思いは他人に伝わらないという事はもう最近の日々のなかで痛感したので、これ以上は書かない。

本題に入ろう。CRYAMYがいなくなってからの最近のことを。

最近は、やっと新譜が実感を伴って聞けるようになった。これまで「これが諦観なんだろう」と思っていたことがまるで子供だましの玩具のように思える程の日々だった。
彼らの新譜以前の音楽(テリトリアルが象徴的な、と言えばきっと伝わるだろう)は、かつて自分が若さゆえに抱いていた盲目的な美徳や優しさを肯定してくれた。とりわけ、大切な誰かに生きていて欲しいと思うことを。
私は、当時この音楽の虜であった。
だが、新譜では違う。生きるということ、歌うということは、負けるということであると歌われてしまった。全ては美辞麗句であり、夢想していた正解は空洞の中で眠らせるしかない。剥がれた空の真下で巡った、これまで私が虜になって美しいと信じて疑わなかった言葉たちでは、未来は繋ぎきれない。なんて残酷な事だろうか、だが、きっとそれが世界の正体なのだ。
美徳とは対極にある生々しい心象を叫ぶ前半が、今ではまるで自分の気持ちを代弁しているようだと思うようになった。最近は、やたらめったら親切な人の事も暴いてしまうし、これから繰り返すことは人とただすれ違っていくことだけなのだと心から共感してしまった。
世の中は最低だ。最後のツアーでカワノが言った「こんな世の中でまともに生きている人間の方が、よっぽとまともじゃない」という言葉に、今では力強く頷ける。

だが、苦しいことばかりでもない。
カワノは、それでも最後に世界を歌ったのだ。
私のことを赦してくれた、朝焼けを貸してくれた「あなた」が、世界よりもであり、生きていて欲しいと叫んだのだ。
なんて強いことだろうか。これだけの諦観、絶望に向き合いながらも、それでもこの歌を歌うという事は、尋常ではない。最近はそれを痛感する日々だった。前回のnoteでは、あまりの苦しさにもうどうしたらいいか分からない、という気持ちを残して終えてしまったが、カワノはそれでも世界を歌ったのだ。それ以上のことはない。前を向かねばならない。日比谷野音の3時間半の間で、彼が想像を絶する犠牲を払い、遂に使いこなした愛と誠実を確かに受け取ったのだから、落ち込んでいる場合ではない。(と言葉では書けはするが、まだ身体が追いつかないのもまた事実である、、)

また、前回のnoteでは彼らの音楽が心の奥底に響かなくなってしまった、と残してしまったが、新たに聞こえ方が変わり、蘇った曲もあった。
GLH、街月、天国が、そうだ。

まずは、GLHから。
彼らの演奏をもう目の前で見れないということ、ライブハウスで演奏が始まった瞬間に全身に鳥肌が立ち、全ての細胞が一瞬で生まれ変わるようなあの感覚がもう2度と訪れないだろうということは、どこまでも哀しい。実際、当時はどの曲を再生しても、その哀しさに襲われてしまい、もうどうしようもなかった。
だが、それは彼らの音楽が途切れるという事ではなかった。懲りずに帰り道にいつものようにGLHを再生した時に、「永遠に言うなよ 「さよなら」の4文字は随分前に僕が壊しておいてあげたから なくさないでね」が鮮明に刺さった瞬間があった。
「絶対」賛美歌は終わらない。
「生涯」賛美歌は途切れない。
最後の下北沢では、「君がもたらした木漏れ日は失敗の歴史だったようだけど、君のだからいいよ」と歌っていた。失敗の歴史は、誰かを照らす木漏れ日になるのだ、、
こんにちは おはよう おやすみ ありがとう
愛しているよ 愛しているよ

次に、街月。
これまでは「できるだけそれの当事者にならないように 逃げてもいいんだよ」という歌詞がずっと腑に落ちていなかったのだが、最近になってやっと理解できたような気がする。
言葉にすることがとても難しいのだが、世界を直視するということ、またその正体を認めて諦めるということ、根本に疑いを持つということ、若さゆえの盲目性を失うということは、不可逆なのだ。一度そうなってしまったら、もう二度とかつての自分は取り返すことができない。まさに、「最初で最後のミス」なのだ。最近ドストエフスキーの「地下室の手記」という本を読んだのだが、それをきっかけに正しく私もこのミスを犯してしまったという実感がある。ここ数ヶ月はその影響で排他的になってしまい、それに罪悪感を感じる日々だった。だが、「できるだけその当事者にならないように逃げてもいい」のである。それから逃げる人達も、等しく正しいのだ。「間違えない馬鹿たちの集ったこのフロアこそが俺の愛だよ」が、やっと実感を伴った。誰も彼も、きっと間違えない馬鹿なのだ。
愛の極北に希望はなくとも、「Say Love And Peace」が時代遅れの詭弁に成り果てようと、下手くそな歌を綺麗だと言える俺たちはきっともう少しだけ器用になることを許されている、何も諦める必要はない。
どれだけ非現実的だと分かっていようと、未来に勝算を立てること。それがもう悲しまないためであっても、きっと間違いじゃないと、今ではやっと思える。

とりあえずこのnoteとしては最後、天国。
新譜の中では特に思い入れが強く、これまで幾度となくこの曲の解釈に頭を悩ませてきたのだが、また最近になって変化があった。
この曲の肝は、「あなた」と「私」にどの存在を当てはめるのかだろう。
最近は、「あなた」が前述した最初で最後のミスを犯す以前の私(カワノ)であり、「私」がそれ以降の現在の私(カワノ)であると解釈して聞いている。後者は、周到に行われた変化によって息苦しいことを受け入れ、そして生活が終わった、私である。
これまでは「私もそんな風になれたらいいのにな」という歌詞がどうしても腑に落ちなかった。過去の自分に対してそんなことを思うなんて、微塵も想像していなかったからである。だが、最初で最後のミスを犯してしまった今では、あまりにも共感ができてしまう。不可逆であることを理解しながらも、かつての純真な自惚れをもった自分に戻れたらと、何度思ったことだろう。
この解釈をすると、「のびた髪が肩にかかるまであともう少しだけ生きていて」も腑に落ちる。きっとカワノが髪を切ったあの瞬間こそが、かつての私から現在の私へと切り替わるタイミングだったのだろう。「死なないで どうか死なないで」とかつての自分に向かって叫ぶ悲痛な声に込められた絶望的な無力感が、痛いほど身に染みる。
かつての私は、「一緒にどこまでも諦めてあげるよ」というフレーズの虜であった。なんだかとてつもない救いのフレーズのように聞こえていた。
しかし、最近のどうしようもない日々の中でふと天国を再生した時に、「ああ、この言葉こそが今まさに自分が誰かに言われたい理想的な言葉だな」と思った。そして、ハッとした。前述した解釈で天国を聴くと、この言葉は他の誰でもなく、自分自身が自分自身に向けて投げかける言葉になるのだ。なんて哀しい歌だろうか。もう耐えられない。だが、きっとそうするしかないのだろう。

CRYAMYから通知を受け取ってから、勢いでこの文章を書いてみたものの、結局ただ自分勝手に想いを吐き出すだけの文章になってしまった。
当然こんな文章をメッセージとして贈るわけにはいかないので、年末までにまた考えなくては、、

CRYAMYの音楽は自分の中で生き続ける。
それが最近は分かったということ、それだけ。

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