母の置土産
母がまだ母だった頃、私達はすれ違っていた。いつも母は私を窮屈にしようとしていたと思っていたし、私は母を覚めた目で見ていた。いや、言葉を選ばないで言うなら母を下に見ていたのだ。若さもあったのかもしれないが、かなり、傲慢だったのだと思う。時間を、流されたり積み重ねしながら私は生きていた。その頃、私は「孤独感」と言う感情に苛まれ、まるで地獄を這いずり回っていたのだ。心臓より奥の奥、ぽっかり穴があって、それは底に穴の空いたバケツのようだった、というのがしっくり来る。長い長い時間、もう「オトナ」として成熟していると他者から見られる年頃もその孤独感は、私をいじめた。どこから来るのか分からずに、しばらく夜の街で酒を飲みながら誤魔化していた時期があって、朝方までよく、家を開けていた。しっくりしていたのだ、夜が。雑多な酔客が猥雑に流されている街が。まぁ、今思えば逃避であり、ただ遊びたかったのだろうが、母をひとりにしていたのは確かだった。「誰にも愛されない」そう頑なに思っていたくせにお人好しの顔でよく笑っていて、ひとりになるとクタクタになっていた。
母に、虐待をされていたわけでもないし、支配されていた訳でもない。なのに根本的な愛情を私は感じられなかったのである。
泣いても身悶えでも、どうしようもない事は年々、降り積もっていて、例えようもない後悔に落ちた期間もある。自分が男性に愛情だと思っていたのがただの執着であり、その正体は「依存心」だった。
だが彼を思っては泣き、ないては思う、そんな時間は長かった。しかし、終わりは急いでやってきた。報われない、などとの酔いが覚めたのである。
自分の思いに酔い、さめざめと泣いた。相手への思いが重くて背中が硬かった。今でも不思議。あんなに執着していたのが。ある夜、大泣きをし、瞼が土偶になるまで、泣きわめいた。子供でもしない地団駄を踏んだ。一人の部屋で。抜け落ちた。憑き物が落ちた。長い厄災が明けた。とにかくぽけん、と相手に対する感情が抜け落ちたのだ。空っぽが虚しくないのは初めで、少し楽になったのだ。
さてそれから数年が経ち、母が認知に。あんまり、介護がしんどくて、母が母じゃなくなっていくのが怖くて。
母が御手洗にまだ、いけていたとき私は狭いキッチンではらはらと泣いていた。グズグズとまだ、現実を受け入れられなかったのだろう。ようをたした母がわたしに「○○、なんでないてるの?どうしたの?」そう聞いてきた。
もう私は「おかあさんおかあさんおかあん」へたりながらそう言うしかなくて、私を忘れていた母が、私を思い出した瞬間だったのだ。母の横に座って、呟いた「誰にも愛されない」と。若い頃よりの確信を。「愛してるよ、愛してる、私が」と母は言い、ふと顔をあげてみると、母は泣いていた。その時、私は「愛情」を受け入れたし、腑に落ちた。あれは、まだ、母が母だった頃の置土産だったのだろう。最後の。
ふっと気づくとどうしようも無い「孤独感」は、解けて、何処かに行っていた。ずっと付きまとっていた冷たいそれ。淋しくて慌てて夜の街に親しみを覚えていた。まだ、大人としては未成熟だが、大きななにかを手放せたのは確かだ。今、その母は、私を忘れて何処か遠くを見ている。けど、それでもいい、私が覚えている。母が忘れても、あの金の時間は、これからも私を奮い立たせてくれるだろう。何度も転んだって、なんども膝の汚れを手で叩き落として、両の足で立ち上がる。そんな気にさせる、置土産だった。