デザインを「道具観」から考える
ここ最近は「庭師としてのデザイナー」のあり方をずっと考えているわけだが(詳しくはこちらの記事参照)、先日ある議論をしていてふと、そのカギは「道具」にあるのでは? と思い至った。正確に言うと、道具に対するスタンスや価値観みたいなもの(ここでは「道具観」と呼ぶことにする)である。
デザイン思考には、さまざまなメソッドを集めた「ツールボックス」という概念が根底にある。私が初期にデザイン思考を学んだ書籍の一つに、奥出直人さんの「デザイン思考の道具箱」があるが、思えばこの頃から、「デザイン思考=いろんなメソッドを詰め合わせたツールボックス」というメンタルモデルができあがり、それ以降、いろいろなメソッドを習得し、実践で試してみては自分なりに組み合わせる、という学習スタイルで仕事をしてきた気がする。今ではデザインに関するツールキットやツールボックスが世の中にあふれているが、この「ツールボックス」というメンタルモデルを手放してみることが、庭師としてのデザイナーに通じるのかもしれない。
ということで、ツールボックス「ではない」オルタナティブな「道具観」についてしばし探索してみる。
ブリコラージュにおける道具
まず最初に思いつく古典的な例は、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」である。ブリコラージュとは、ありあわせの道具や材料でものをつくることで、ブリコルール(=ブリコラージュをする人)は、科学者やエンジニアと対比される。
今回の主旨に照らせば、上記の「構造」を「道具」と読み替えてしまってもよいだろう。
科学者(やエンジニア)は、最初に計画を立てて、それに合わせて必要な道具を揃えるのに対して、ブリコルールは限られたもちあわせの道具を駆使して目的にできる限り沿うものを作り上げる。ブリコルールが持ちうる道具には物理的にも環境的にも限りがあるため、目的や用途が予め決まっているわけではなく、「いつかなにかの役に立つだろう」という潜在的有用性を基準に、時間をかけて少しずつ集められる。
イメージ的には、整然と並べられた「ツールボックス」なんてこじゃれたものは持っておらず、大きなズタ袋にとりあえず使えそうなものを雑多にポイポイ放り込んでいるような状態である(あくまでイメージ)。
ブリコラージュは、レヴィ=ストロースの構造主義を象徴する概念であり、ブリコルールと科学者の対比は、そのまま「野性の思考(神話的思考)」と「栽培された思考(科学的思考)」の対比でもある。これはもうほぼほぼ「庭師(としてのデザイナー)」と「建築家(としてのデザイナー)」の対比だと解釈してもよいだろう。
ちなみに、ブリコラージュに似たものとして、インドには「Jugaad(ジュガード)」という言葉がある。ヒンディー語で「斬新な工夫による応急処置」みたいな意味を表す言葉で、ある種究極のブリコラージュとも言える。「Jugaad」で画像検索するとトンデモ作例がいろいろと出てくるので、眺めるだけでも割と楽しい。
コンヴィヴィアリティのための道具
こちらもやや古典ではあるが、道具といえば次に思いつくのがイヴァン・イリイチである。
イリイチは、「脱学校の社会」の中で、近代的な義務教育制度を「制度依存症をつくるための制度」として痛烈に批判した。現状の教育制度は、自らの感覚や想像力に導かれる「自発的な学び」を阻害するものであり、旅行代理店やガイドブックに頼るような人生(=ジャーニー)を送る人が増えていくことに警鐘を鳴らした。そうした近代的な制度に対するカウンターとして提唱されたのが、「コンヴィヴィアリティ」(一般的には「自立共生」と訳される)という概念である。
イリイチによれば、道具には大きく「操作的(manipulative)な道具」と「コンヴィヴィアルな道具」の2種類があるという。「操作的な道具」とは、道具の設計者が特定の機能や意味を決定していて、利用者側に工夫の余地がないものを指す。対して、「コンヴィヴィアルな道具」とは、利用者の創造性を最大限に発揮するような道具のことを指す。
ここで一つ留意したいのは、イリイチは「道具」という言葉をめちゃくちゃ広い意味で使っていて、物理的なツールだけでなく、施設やシステム、制度などのしくみ的な要素も含まれる。
「コンヴィヴィアルな道具」のわかりやすい例を挙げれば、ハンマーやポケットナイフなどのハンド・ツール(手に頼る道具)で、使う人を選ばず多目的に利用することができる。ところが、道具がどんどん「操作的」になるほど、使い手に選択の自由がなくなり、それがある「分水嶺」を超えると、道具に奴隷化される(=コンヴィヴィアリティが失われる)ような事態に陥る。
ただ、必ずしも原始的でシンプルな道具だけがコンヴィヴィアルなわけではなく、前述のように制度やしくみにもコンヴィヴィアルなものと操作的なものが存在する、というあたりがこの本のややこしいところなのだが、これ以上はうまく説明できる自信がないので、一旦この辺に留めておく。
とりあえず、「操作的⇔コンヴィヴィアル」という軸は、道具観を俯瞰する上で重要なポイントとなるだろう。
精霊(スピリット)としての道具
デザインと道具と言えば、榮久庵先生(もう先生と呼ばせていただきます)の「道具論」を抜きには語れまい。GKデザイングループの創始者である榮久庵憲司先生は、自らの仕事を「道具産み」と称し、道具に「精霊(スピリット)」としての存在を認めるというラディカルな「道具論」の提唱者でもある。
道具論をざっくり要約すると、私たちの人間世界とは別に「道具世界」というものが並行して存在していて、道具自身が集団を作ったり、異種交配して道具が道具を生んだり、遺伝子を継承したりと、多様な現象を引き起こす。一つ一つの道具には精神(スピリット)が宿っており、人間が道具の夢や欲を叶えてあげることで、文明の質が変わってくる、というようなものである。
さすがにスケールがでかい。まるで付喪神のような世界観を想起させるが、アニミズム的な東洋思想を反映した道具観とも言える。
ただ、ここでの道具は(端的に言ってしまえば)「モノ」のことを指しており、デザインの「手段」というより「対象」の意味合いが強いので、今回の主旨とは少しずれるかもしれない。
料理における道具
急に俗っぽい例になるが、料理にも道具は欠かせない。巷には便利な調理家電や調理グッズがあふれ、ライフスタイル雑誌を開くと、丁寧な暮らしとともに使い込まれたこだわりの道具がこれでもかと紹介されている。
しかし、そういう消費的なコンテンツと一線を画すのが、ウー・ウェンの「料理の意味とその手立て」である。
ここから先は単に推しの料理本の話になってしまうが、この本は料理が持つプリミティブな本質を丁寧に解説してくれる良書である。実はこの本の中では道具に関する具体的な言及はあまりない。あっても、「大きめの炒め鍋」とか「口が狭くて深さのある鍋」みたいなアバウトな記述のみである。さらに、料理本では定番のレシピも、載ってはいるがとても簡素なもので品数もそれほど多くはない。
では何が書いてあるかというと、「炒める」「蒸す」「煮る」などの調理方法の原理と、基本的な調味料や素材(塩、油、野菜、肉など)の特性をひたすら掘り下げるような構成になっている。例えば、「炒める」という調理方法は(ウー・ウェンに言わせれば)「加熱したボウルで素材を和える」行為であり、「揚げる」という調理方法は「沸点が高い油の温度を利用して効率よく素材の水分を対流させる」行為である。
料理のしくみ(=意味)が先にあり、意味を最大限に引き出すための「手立て」としてさまざまな調理方法やレシピがあり、道具はその手立てを構成する「器」の一つでしかない。「道具をどううまく使いこなすか」みたいな発想が(少なくともこの本の中では)あまり前景化しないというのが、ウー・ウェンにとっての「道具観」(というかもはや料理観?)になっているように感じる。
ちなみに、同じように料理の原理をまとめた名作として、「料理の四面体」という本もあるのだが、これ以上書くとほんとに料理本の推し記事になりそうなので割愛する。
ULにおける道具
UL(ウルトラライト)ハイキングにおける道具観も「庭師」にとって重要な手がかりの一つになると思う。
今でこそ、ULはすっかりコマーシャライズされ、巷にはさまざまなULガジェットやULファッションがあふれているが、ULの本質は軽量で高性能なガジェット群ではなく、装備を身軽にすることで少しでも行動範囲を広げたいというハイカーの切実な知恵と工夫にある。
ULハイカー達は、装備をできる限り軽くするために、あるツールを本来の目的とは違う用途に転用したり、1つのツールを複数の用途で使うためのハックを次々と編み出す。典型的な例で言うと、寝具としてのマットをペランペランのバックパックに丸めて入れて支持材にしたり、空き缶を加工してアルコールストーブにしたり、というようなものだ。
山と道の「チープ・ハイク」という連載記事がまさにこうした知恵と工夫の結晶のような素晴らしいコンテンツなので、興味がある方はぜひ一度読んでみてほしい(なんかどんどん推しの紹介みたいになってきたな)。
こうしたハッカー精神の系譜をたどると、お金をかけずにファッションを楽しむ「チープ・シック」(↑の連載記事の元ネタ)や、アメリカのカウンターカルチャーを代表する伝説的な雑誌「Whole Earth Catalog」にまでさかのぼることができる。これらに共通するのは、あくまで使い手の「知恵と工夫」こそが最大の道具であり、ツールは消費するための「商品」ではなく知恵と工夫を引き出すための「マテリアル」であるという道具観だ。
既製品のカスタマイズや目的外利用を積極的に行い、優れたハックはコミュニティの中でどんどんシェアされることで、全体として大きなカルチャーを生み出す。これはまさに「コンヴィヴィアルな道具」の条件とも見事に重なっている。
「庭師としてのデザイナー」のための道具観とは?
さて、ここまで教科書的な古典から身近な(推しの)事例まで、いろいろな道具観を見てきたが、改めてみると「ツールボックス」というメンタルモデルは相対的にみるとさまざまな道具観の中の一つの選択肢でしかないことがわかる。
もちろん解釈の幅はあるだろうが、「ツールボックス」というメタファは、一つ一つのツールに予め決められた用途や目的、使い方が備わっていて、ユーザーはそれらに習熟しながら場面に応じて使いこなしていく、というような道具観を前提にしている。実際、デザイン系のツールキットもたいていはプロセスごとにきっちり分類され、メソッドごとに(正しい)目的や手順が定義されている。ブリコラージュとの対比を考えると、これはある意味、職業的な専門家としてのデザイナーを想定した近代的な道具観とも言えるだろう。
しかし、道具観を幅広く捉えると、目的や用途は必ずしも道具にもともと備わっている所与のものではなく、むしろ使い手が自ら見出し、発明していくものだ。
道具の正しい使い方が先にあるのではなく、まず目の前の状況や意味に正面から向き合い、「手立て」としてとりあえず有効そうなものをもちあわせの中から探り当てる、なければ自分で編み出す、そういう精神が「庭師としてのデザイナー」に通じるのではないか。
リサーチのための道具を別の目的で使ってもいいし、なんならデザインとは全く関係ない分野から援用してきてもいいし、なければ自分で作ればいい。そして良い道具ができたらそれをどんどん周りにシェアすればいい。そういう創造性とフットワークの軽さを意識することが、最初で最大の「道具」になるのかもしれない。(と、きれいにまとめた風にしてるけどまだ結論には全然至ってないので、これからしばらくは道具観について考えることになる気がする)
Photo by Barn Images on Unsplash
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