見出し画像

#41 募金をするようになった

年始に能登半島で大きな地震があった。
‘23年のゴールデンウィークに車で能登半島を一周した事もあり、すごく身近に感じた。だからと言うわけではないが、先日会社で今回の震災の影響で募金を集める機会があったのでお金を入れた。うちの会社は震災等があった際は募金を集める習慣がある。大きな声では言いにくいが正直今までは募金でお金を半強制的に徴収される、という様に感じていた。こういう所に自分のまともじゃない部分が現れている。

本当に人間として最低だけど、募金をした所で何か貰えることも無ければ御礼を直接言われる事もない。そういう事じゃないってのは分かるけど、そういう発想の人間だった。困っている見ず知らずの誰かより自分のお金を守るっていう意識の方が強い。つまり自分の事しか考えていない。

似た様な例で言うと、神社などのお賽銭に対しても基本的には出してこなかった。お祈りやご利益という得体の知れない何かに小銭すら払いたくなかったのである。

僕は損をする、という事に異様なほど拒否反応がある。
だからギャンブルもしないし、投資もしない。何かしらのリターンが確約されていないものにお金を費やすことができない。

そんな人間だったが、今回募金箱にお金を入れた。
しかも1,000円。金額云々を言うのは野暮だが、自分にとっては異例中の異例。決して同調圧力に負けて渋々でなく、どこか心が軽くなる様な気もした。

過去にも記事にしたが、いつからか自分の事にあまり興味がなくなってきた。なんとしても欲しいものや行きたい所、やりたい事はもうない。あったとしてもどこか暇つぶし言うか、心の底から欲していない自分にうんざりするくらいに顔を合わせてきた。それなら少しだけでも時間やお金や労力を他人に使ってみよう。それで得られるものは僅かばかりの自己満足かもしれないけど、心の底から欲していないものより、少しでも誰かの助けになるものに使った方ががよっぽど良いだろう。

お賽銭もできる様になった。ご利益云々ってのは相変わらず興味はないけど、そこで働く人だったり、その場所を維持するためにお金を払うって考えると何も抵抗なく出せるようになった。

久しぶりに少しだけ自分を好きになれた気がする。
自分のことだけじゃなく、誰かに目を向けて生きるのも悪くないかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?