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神話と歴史の間に・・・



出雲の場合

日本最古の歴史書とされる「古事記」の冒頭は、古代神の国産みの神話から始まる。そして出雲神話に重点が置かれている。
「出雲」といえば、大国主、出雲大社、国譲り、稲佐の浜などの出雲神話のアイテムが、キーワードとして浮かんでくる。そして、なぜこれらが歴史として記述されていないのか、という疑問が浮かぶのだ。
ある文献には、神話や神社が、見る者に錯覚として写るように作用している、という文言があった。たしかに、神話とは、なにかを隠すためのカモフラージュという側面があるのかも知れない。つまり、神話という泡の中に歴史が隠されているようなのだ。

発見された遺跡 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は歴史を語るか?

歴史の証拠となる痕跡は各地の遺跡によって認められる。出雲地方では、まず、出雲市斐川町の荒神谷遺跡があげられる。
荒神谷遺跡は1983年、広域農道建設に伴う調査がきっかけになって発見された。銅剣358本、銅鐸6個と銅矛16本が出土した。以前荒神谷博物館を見学したとき、手に持てる実物大の模型の銅剣が思いのほか重かったことを憶えている。
さらに、そこから約3Km離れた加茂岩倉遺跡からは1996年に、39個の銅鐸が発見され、この地が弥生時代後期に発展していたことが判明し、神話の出雲が歴史の中に顔を出すことになった。

出土品の一部 出典;荒神谷博物館カタログ


どういう勢力が、いかなる理由で、これらの物を埋めたのか、という歴史的背景はどのようなものであろうか。
梅原猛・著「葬られた王朝」の中で、著者は出土品を綿密に研究して検討し、「古事記」や「日本書紀」を読み解きながら、考古学者の意見も聞いた上で、これほど大量の青銅器を保有したのは、
「間違いなく出雲王朝の大王であり、おそらくオオクニヌシといわれる「人」であったに違いない。」
と述べている。
そして、大量の青銅器が二つの遺跡に埋められた時期は紀元一世紀ごろで、それは天孫族が九州から西日本に東征した時期であり、国譲りの時代とも重なる。そして、出雲王朝の最後の王が、これらの青銅器を丁寧に土に埋めて冥界のオオクニヌシに送り届けようとしたのではないか、と推論している。

出雲大社境内から発見された巨大な三本柱

平成十二年、島根県大社町の出雲大社境内から、巨木三本を束ねて一本とした直径約3メートルの宇豆柱と呼ばれる巨大な柱が出土した。本殿の高さ約48メートルとされる古代神殿の伝承を裏付けるものとして注目を集めた。公開された古代図面「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)には三本一組の柱が九組描かれている。三本の柱材は楕円形の杉で長径約1.35m、残存の長さは地中に約1.2m、柱穴には長大な柱を支えるための無数の人頭大の石が詰められていた。

古代出雲歴史博物館
出典;出雲大社パンフレット

宇豆柱やこの地域の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から銅剣や銅鐸などが出土されるまでは、古図面と伝承があるだけで事実を伝える遺跡がないことを根拠に、出雲神話はまったくの虚構であると考える学者もいたようである。しかしながら、三本一組の古代の柱は、その柱根部分だけとはいえ、出雲神話が歴史的事実を反映している好例を示している。
その翌年、NHKスペシャル「巨大神殿は実在したのか」という番組が放映された。それは、専門の大学教授の他宮大工や鍛冶の専門家、大手建設会社の技術者などで構成されるチームによる大がかりなプロジェクトであった。テーマは技術の視点から古代の謎に挑み、発掘された柱から古代の出雲大社の姿に迫る、というものである。
チームは、湧き上がった数々の疑問点を踏まえ、発掘現場の状態を観察しなおすとともに、出土した鉄の輪、釘、柱の周囲に埋め込まれていた石などを元にして多くの異なる分野の専門家が実験も含めて解明にあたった。
一つは十分な基礎強度を持つ柱を立てる実験で、これは柱の埋め込み部に約10トンの石をこぶし大から人頭大の大きさを程よく配置し、土も用いることによって2m程度の埋め込み深さでも十分強度が確保できることが分かった。
一方、三本の柱を束ねる方法は、出土した鉄輪と釘を鍛冶職人が実際に作成して実験を重ねた。試行錯誤の結果、現場から出土した長さ40㎝の釘を再現制作したものはくさびに近いもので、鉄輪のつなぎ目にそれぞれ位置をずらせてあけた各穴に打ち込んでいく過程で輪の内径が小さくなっていき閉じた鉄輪が三本の丸太をぎゅっと締め付けるという好結果を得た。つまり鉄の弾力が発生して三本の別々の丸太が大きな圧力を受けて一本の柱に匹敵する強度が生まれるということである。
完成した設計図を大手建設会社の技術者が構造解析した結果、M7.3クラスの地震にもしなやかにゆれて地震の力を逃がし、現代の免振高層ビルの構造に匹敵することも分かった。
番組で技術者たちは「土は土なり、木は木なり、石は石なりの使い方を知ることが現代につながる」、「古典は斬新なり」という言葉を残している。
プロジェクトの成果として、かなりのことが解明された。
古代の神殿が48mの高さを持っていたという伝承が真実に近づく結果となったが、国譲りなど多くの謎は、神話の中に隠されたままなのだろうか?

国譲り岩とつぶて岩・・・出雲神話をインプットした記念物

稲佐の浜で、天津神に国譲りを迫られた大国主命の子息である建御名方神(タケミナカタノカミ)は、古事記の表現を借りると、
「・・・お手玉でもするがごとくに千引きの大岩を掌に乗せてやってきて・・」、国譲りに抵抗し、天津神の使者である建御雷神(タケミカヅチノカミ)に挑んだ、というが、その時に、荒神谷遺跡の銅剣でもって刃向かったという歴史は、ない。

稲佐の浜;弁天島


出雲大社からほど近い稲佐の浜には、弁天島が海を背景に浮かんでいる。振り返った民家の近くにある屏風岩は国譲り岩とも呼ばれ、その傍らで国譲りの談判が行なわれたことになっている。
かたわらの説明板には、
「出雲国を造られた大国主命と高天原からの使者として派遣された建御雷神が、この岩陰で国譲りの話し合いをされました。戦うことなく笑顔で国譲りをされた大国主命の「和を尊し」とする心は、今もなお町民の心に受けつがれています。」
と書かれている。

国譲り岩

国譲りの交渉は、天津神の建御雷神と大国主命の子息の事代主命と建御名方命の三者で行われた。建御名方は難色を示し、建御雷神と力比べの結果諏訪の地まで逃れ、その結果大国主命は国譲りに同意した、という展開になっている。
この、二神の力比べのくだりが、「笑顔で国譲りをされた」訳ではないことを示唆している。
稲佐の浜の国譲り岩の傍らの説明板の内容は、文字どおりには受け取れまい。「国を譲る」という行為は友だち同士のプレゼントのやりとりではないのだ。
稲佐の浜から大社町沿岸の県道大社日御碕線をしばらく日御碕に向かって車を走らせると、建御名方神のお手玉となったつぶて岩が海上に見える。傍らの看板には、神々が力比べをして海へ投げ入れた結果できた、と説明している。

つぶて岩

神話と歴史の間に横たわる大きな溝を埋めるものは何か?

国譲り岩やつぶて岩に見られるように、各地には、天然の樹木や巨石や磐座に神話や古代史をすり込んで後代に伝える記念物としたものが多くある。
そしてこれらは根拠の有無にかかわらず、古代史や神話等に親しむ拠り所となっているのであるが、神話と歴史の間に横たわる溝は依然として大きい。
 
その溝を埋めるものは何か?
吉田大洋・著「謎の出雲帝国・・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り」という衝撃的な副題を持つ文献がある。
本書で描かれる国譲りのエピソードをまとめると、次のようになる。
<タケミカヅチと天ノトリフネの二人は、稲佐の船着き場に船で押し寄せ、城内の四方を取り囲み、一帯の諸城を攻め取り、副王らしき者を含めて敵兵を生け捕った。そして黒黄種の王(オオクニヌシ)に剣先を突きつけ、鋭い鋒にものいわせて国譲りを迫った。子息のコトシロヌシは国譲りを了承したが、その船を叩き破られ、燃やされたうえ殺された。もう一人の子息タテミナカタは自軍を率いて抵抗したが叶わず軍を撃滅され、諏訪湖まで逃げ、そこで水死した。
国譲りは、天孫族と出雲神族との血みどろの戦いを経て行なわれたのだ。オオクニヌシは自分の墓として天ノ神の御陵と同じものを所望して、殺された。>

出典;国譲り神話の説明板

これは、「笑顔の国譲り」ではなく「武力による征服」である。つまり天孫族の武力によって出雲帝国が征服され、出雲政権の支配者が殺された、ということだ。
さて、これが真実の歴史である、ということになれば、現代社会はどういう影響を受けるであろうか? 水面に生じた波紋は距離と共に減衰するように、2千年程前に起こったとされる事案の影響は、時の流れと共に減衰し、現代に影響を及ぼすことはほとんどないのであろうか。
あなたは、どう想う?

参考文献;
三浦佑之・著「口語訳 古事記」・(株)文藝春秋
梅原猛・著「葬られた王朝」・(株)新潮社
関裕二・著「古代日本神話の考古学」・(株)河出書房新社
吉田大洋・著「謎の出雲帝国・・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り」・(株)徳間書店





 



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