アガリスクエンターテイメント『かげきはたちのいるところ』感想
観劇からちょうど1週間が経ってしまいましたが、遅ればせながら。
「極左暴力集団のゆるふわホームコメディ」という物語の性質上、どうしても(?)政治思想に触れるので、大した長さではないですが、Twitterではなくnoteに書いていきます。
思ったままになぐり書きしていくので、論としてまとまってはいません。感想としても中途半端な出来。お許しください。
いや〜〜〜〜〜〜面白かった。
一番思ったのが「登場人物全員が綺麗にハマっている……!」ということでした。
熊谷さんはどうみても「過激派組織の女構成員」だし、淺越さんは理系の院を出て爆弾作ってそうだし、津和野さんはどうみても大麻吸ってそう。
一番すごいな、と思ったのは塩原さんで、伊藤さんが一軒家を訪れたときや、榎並が計画書をコピー機に置いてきたときに見せる、ある種冷徹な表情には「これは極左暴力集団のリーダーだ」と思わされました。
衣装も、舞台も、役者さんの演技も、全部が揃っているので、ここまで説得力が生み出されているんだろうな、と思います。
さてストーリーですが、これはもう最初の「初心者サイズ」からの「左曲がり」でもう完全に掴まれてしまいました、ああいうウィットの効いた下ネタ大好き。最初にああいう笑いがぶっこまれたことで、「これは笑って観ていいものなんだな」というモードに身体が切り替わるので、「極左暴力集団」でも「ゆるふわホームコメディ」として肩の力を抜いて観られました。
定期的に「初心者サイズ」を挟んでくる上に、最後の最後に「初心者サイズ」で綺麗に締めるところ、ずるいですね。泣かせる下ネタはずるい。
終盤を除いて、シリアスな場面でも(どっちに集中したらいいか簡単にわかる程度に軽い、けどちゃんと笑える)笑いが入ってくるのもすごく楽しい。バランスのとり方も笑いも上手すぎる。
第1話で、マクドナルドの店長に「プチブルが!」と毒づく斉藤ですが、マクドナルドといい、レンタルビデオ店といい、資本主義の象徴というかアメリカの象徴みたいな店で革命戦士が働いているというのも物悲しい。
それぞれのエピソードでは、恋愛感情に振り回されたり、ボンバーマンで対決したり、家族の病気のために離脱したり、思いを寄せる相手のために奔走したり、変わっていくことを恐れたりと、なんとも人間的な出来事が続いていきます。それが「東京五輪粉砕」「爆弾闘争」「革命的反グローバル資本主義者同盟」等の、強く、そして組織的な単語と対比されるようで、より滑稽さを際立たせていると感じました。
ああ、もっと思ったことはあったはずなのに、1週間もおいたからかなり忘れてしまっている。
ところで。多くの日本人にとって、「革命」とそのための「闘争」は「成し遂げられなかった過去のこと」です。学生運動の時代には、運動に参加しない人間をノンポリと称したようですが、現代はノンポリという単語を用いる必要がないほどに、ほとんどの日本人が政治運動とは無縁の生活を送っています。
過激な闘争は、下の世代から疎まれましたが、さらに下の世代(現代の多くの若者たち)からは、もはや疎まれもしないものになりました。
過去に、ときに死傷者を出すほどに、過激な闘争があったこと。そしてその闘争が大きな成果を出すことなく消えていったこと。それらを「自分たちが、いまでも当事者である」と捉えているひとはほとんどいないでしょう。
多くの人にとって、「革命のための闘争」は「物語」であり、「過去の、成し遂げられなかったできごと」と捉えることができるようになりました。誰しもが心のうちに、いつかの「叶わなかった夢」を住まわせています。それは恋かもしれないし、別れかもしれないし、手の届かなかった目標かもしれません。
『かげきはたちのいるところ』が最後だけでなく、全編通してエモーショナルに感じられるのは、物語としての「成し遂げられなかったできごと(革命・闘争)」が「叶わなかった夢」たちを呼び起こしているのでしょう。
同時に、これは現代の、ノンポリの時代に東京オリンピックがあったからこそ生まれた、極めてコンテンポラリーな劇だったのだな、と思いました。
『かげきはたちのいるところ』とても楽しい演劇でした。アガリスクの次回公演も観に行こうっと。
そして。
つぎは観たらすぐ、感想を書きます。反省。
よし、これでだだらじが聴けるぜ。