肉体に負荷をかけろ!

『妻と帽子をまちがえた男』(オリヴァー・サックス,ハヤカワ文庫NF )を読んでいる。
ざっくり言うと、脳神経科医の著者が出会ってきた、奇妙な症状をかかえる患者たちを描いたエッセイなのだが、これがまあすごく面白い。
ひとやものの全体像を視覚では認識できなくなった男性、視覚による補助がなくては身体を動かせなくなった女性など、さまざまな患者が登場する。24ある章のそれぞれで、取り上げられている患者とその症状を目にするたび、人間の記憶や身体の機能、知覚の面白さにどっぷりとのめり込んでしまう。

『妻を帽子とまちがえた男』の5章には、先天盲の60歳の女性、マドレーヌ・Jが登場する。彼女は手を思い通りに動かすことができず、点字を読むこともできない。しかし、著者が調べたところ、彼女自身が「粘土のかたまり」と評している両手は、実は感覚機能にはなんの欠陥もなかった。生まれたときから介助を受けてきた彼女は、手による行動をまったく行わずに生きてきたため、探索機能が獲得されることなく60年を過ごしていたのだ。
彼女は、著者の勤務する病院で手による探索機能をゼロから手にすることに成功する。他人の介助を受け身の姿勢で待つのではなく、自らの意思による行動が、探索機能を手にするための嚆矢となった。彼女はその後、60年間使われることのなかった手で、自ら粘土を取り、塑像を作り始める。

そう。たとえ60年間一度として呼び起こされなかったものだったとしても、意思の力と訓練によって能力を獲得することだって大いにあり得るのだ。
適切に負荷をかけること、適切に刺激を与えることが、何歳であっても、能力の向上・獲得に役立つのだろう。
これはとても勇気づけられることだ!

私は記憶力が弱い方だ、と思っている。
けれどかつては(多くの人が子供の頃そうであったように)、興味のあることはなんでもすぐ覚えてしまったし、自分の記憶力を疑ったことはなかった。
大人になっていくにしたがって、目にしてきたものの数は何倍にも増えていく。視界に溢れる情報も、目新しいものばかりではないように思えてくる。本当はどれひとつとして同じものなどないのに、見慣れた情報を用い、目に入るものを分類して、「ラク」に認識してしまうようになる。弱い刺激でしか受容しないがために、歳を重ねるごとに物覚えが悪くなっていくんじゃないだろうか。

それはある意味では合理的なことだろう。体力は年々衰えていく。好奇心のままに全身全霊で物事を認識することはとても負荷のかかることだ。新しく出会うものを既に持っている情報で「賢く」分類してしまえば、体力を使わずに多くのものを見ることができる。だがそれだけでいいのだろうか?

それじゃあ面白くない! 衰えてしまっているからこそ、より大きな負荷をかけなければいけない!
年齢のせいにして、かつて持っていたはずの好奇心を損いたくない!
記憶力が弱くても、何度も何度も覚えて鍛えて、ということを繰り返していけば、きっと回復(どころかかつてを上回る成長を)することも可能なんじゃないだろうか!

私の能力を狭めているのは私自身の思い込みだ、ということを「思い込み」、頭も身体も使い続けて、衰えずに常にありたい、と思ったのでした。
『妻と帽子をまちがえた男』はそういうことを書いてる本じゃあない気はしますが、まあ、私にはこう読めたので、これでいいのです。


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